“三密”知らずの関宿案内!!
「関宿ぶらり旅 関宿案内@スマホ」

 「関宿ぶらり旅」は、携帯電話等で関宿案内を見ることができるページです。
案内人の説明を受けない“ひとり旅”や“グループ旅行”の方々にお勧めです。
“三蜜”の心配もありません。

<案内の見方>
●画面の下に、案内ポイントが並んだガイドがあります。
●各案内ポイントをクリックすると案内画面がポップアップ表示されます。
※説明画面には広告が表示されます。
●まず自分がいる場所を確認します。あとは、“上り(西向)”、“下り(東向)”を意識しながら、ブラブラしてください。
携帯画面を見ながらの散策は大変危険です。軒下などで立ち止まってご覧ください。


<画面の上下>
画面上が京(西)方向(東海道の“上り”)
画面下が江戸(東)方向(東海道の“下り”)
<画面の左右>
画面左側が東海道の南側
画面右側が東海道の北側です。


<新所(しんじょ)>

新所は、関宿の西の区域です。

(南側) (北側)
←加太・伊賀
題目塔
daimokutou
西追分
関宿西の追分休憩施設

(トイレ)
(駐車場)

御旅所
南禅寺
観音院
鯉の滝登り

鶴亀の漆喰彫刻
長徳寺
誓正寺
新所の坂


窓付きの幕板
旧田中家住宅

関宿観光駐車場→
関地蔵院
jizouin
会津屋の袖壁
←道の駅「関宿」 洋館屋
地蔵町いっぷく亭
(トイレ)


川音
(南側) (北側)

新所は関宿の西の区域です。

<新所(しんじょ)>


<画面の上下>
画面上が京(西)方向(東海道の“上り”)
画面下が江戸(東)方向(東海道の“下り”)
<画面の左右>
画面左側が東海道の南側
画面右側が東海道の北側です。


<中町(なかまち)>

中町は関宿の中心部分です。

(南側)(北側)

福蔵寺
阿野安
高札場
関郵便局
深川屋の庵看板
旅籠玉屋
◆玉屋資料館に入る
中町の景観
橋爪家
浄安寺→
伊藤本陣


百六里庭


(トイレ)
川北本陣

岩木屋
中町三番町山車倉
問屋場跡
脇本陣鶴屋
関まちなみ資料館
◆資料館に入る


桶重
瑞光寺→
瑞光寺・権現柿
瑞光寺のせこ
屋根の高さの違い
馬繋ぎの環金具

←JR関駅 延命寺→
延命寺山門
龍虎の漆喰彫刻
tora


百五銀行
関の山車会館
関神社→
遊快亭江戸
御馳走場
(南側) (北側)

中町は関宿の中心部分です。

<中町(なかまち>


<画面の上下>
画面上が京(西)方向(東海道の“上り”)
画面下が江戸(東)方向(東海道の“下り”)
<画面の左右>
画面左側が東海道の南側
画面右側が東海道の北側です。


<木崎(こざき)>

木崎は関宿の東の区域です。

(南側) (北側)
弘善寺
宝林寺
木崎の坂
木崎いっぷく亭
(トイレ)
長谷屋
一之鳥居
←国道1号・JR関駅
←伊勢神宮
東追分


(南側)(北側)

<木崎(こざき)>


<画面の上下>
画面上が京(西)方向(東海道の“上り”)
画面下が江戸(東)方向(東海道の“下り”)
<画面の左右>
画面左側が東海道の南側
画面右側が東海道の北側です。


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西追分 題目塔(だいもくとう)

daimokutou

「西の追分」は、関宿の西端にある東海道から大和(奈良方面)に向かう街道が分かれている場所です。

「大和道」は大和(今の奈良県)へ向かう街道の意味で、関宿西の追分で東海道から分かれていました。関宿を出て最初の宿が加太宿で、 関宿と同じく三重県亀山市にあります。大和道は加太宿からさらに西へと進み、加太峠、伊賀国を通り越えて大和国に至ります。

さて、大和道は、都が奈良にあった頃は都から東国へとつながる大切な街道で、鈴鹿峠が開かれるまでは大和道が「東海道」でした。

西の追分の道の分かれ目には、「題目塔(だいもくとう)」と言われる石碑が立っています。この石碑には大きく「南無妙法蓮華経」と彫られていますが、その下を見ると「ひだり いが やまとみち」とあり、道しるべとしても利用されていたことがわかります。

 

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西追分

“追分”とは道が二つに分岐する場所のことで、関宿には追分と呼ばれる場所が2か所ありました。

関宿の東の出入口にあたる「東追分」では東海道と伊勢別街道が、西の出入口にあたる「西追分」では東海道と加太越奈良道(かぶとごえならみち)がそれぞれ分岐していました。

分岐点に大きな石碑が立っています。 この石碑は、元禄4年(1691)に谷口長右衛門が建立した題目塔と呼ばれるものですが、 「ひだりハいが やまとみち」と刻まれており、道標ともなっていました。

東海道は西追分を抜けると坂下宿(さかしたじゅく)へ向けて西北に進み、鈴鹿峠(すずかとうげ)を越えて近江国(滋賀県)に至ります。「加太越え奈良道」とは“加太峠を越えて奈良方面に向かう街道”の意味で、西追分から西に進み、加太宿、加太峠(亀山市加太)を越え、伊賀地方(三重県伊賀市)を経て大和国(奈良県)に至ります。

<見学のポイント>
●関宿の西の端にあります。
●国道1号から入ることができる駐車場があります。
●「西の追分休憩施設」にはトイレ(身障者用含む)があります。


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西の追分休憩施設(にしのおいわけきゅうけいしせつ)

関宿の西の端にある休憩施設です。

★建物裏にトイレ(男・女・多目的)が併設されています。
★建物の西には駐車場があります。

この建物は、江戸時代末から明治時代初め頃に建築されたものと思われます。

関宿の町家は平入(ひらいり ※正面から建物を見た時、四角形の屋根が見えます)が一般的なのですが、この建物は妻入(つまいり ※正面から建物を見た時、屋根が三角形に見えます。)になっています。

建物は道路よりも高い位置にあって、道路との境が石垣になっています。もともと西追分あたりは急な下り坂で、松並木が続いていましたが、車の通行のために道路が掘り下げられたのです。

並んでいる松の木は、関宿まちなみ保存会が松並木復元プロジェクトとして植えたものです。

建物の中には「鈴鹿関(すずかのせき)」に関する展示がされています。

「鈴鹿関」は今から1300年ほど前、この辺りにあった関所で、西追分周辺では関所を囲っていたと思われる土塁(築地塀)の跡が確認されています。

 

 


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御旅所(御旅所)

関神社の夏の祭礼で、神輿が宿泊する場所です。関神社の夏の祭礼は、毎年7月20日前後の土日の二日間行われます。神輿は一日目に関神社を出発し、二日間で関宿とその周辺を巡行します。

関宿の夏祭りは、提灯や幕で飾られた山車が曳出されることが良く知られていますが、山車は神輿が巡行を終えた夜に曳き出されることになっています。

<見学のポイント>
●関宿の西のはずれ。北側。
●お祭りの日にしか使われない建物です。
●現在の建物は、昭和の初めに御旅所に移築された関神社拝殿を考証に基づいて復元したものです。


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南禅寺(なんぜんじ)

 

「南禅寺(なんぜんじ)」の屋号を持つ商家です。

現在は住宅となっています。

江戸時代には豆腐料理屋だったといわれており、江戸時代に刊行された旅のガイドブックにも“関宿の名物”のひとつとして「南禅寺の豆腐」が書かれています。

はっきりしたことはわかりませんが、「南禅寺」の名の元はやはり京都の南禅寺で、豆腐料理の評判が良いことからそう呼ばれたのではないでしょうか。

 


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鯉の滝登りの漆喰彫刻

関宿の西部、新所にある町家の袖壁(そでかべ)に付けられた漆喰彫刻(しっくいちょうこく)です。
袖壁とは、火災時に隣家からの類焼を防ぐため、隣家に接した町家の両端にある建物から突き出た壁のことです。漆喰彫刻は、壁を塗る漆喰を使った、左官職人が使う道具“鏝(こて)”で形づくった彫刻です。

図案は、 波打つ川面から鯉が飛び跳ねた瞬間が切り取られた、いわゆる「鯉の滝登り」と呼ばれるもので、「立身出世」や「武運長久」といった家の隆盛への願いが込められているわけです。 職人の遊びなどともいわれますが、関宿に暮らした人々の家々への願いを読み取ることができます。

<見学のポイント>
●関宿新所、街道の南側にある。東から西へ向かったほうが見つけやすい。


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~さらに詳しく~

この漆喰彫刻は、1階庇の瓦屋根、建物の前面壁、袖壁が3方向から交わる位置にあります。この場所は、いろいろと装飾を付けたくなる場所ではあるのですが、「鯉の滝登り」に実にぴったりな場所なのです。というのも、庇の瓦屋根が急流の水の流れに“見立て”られているからです。

“見立て”とは、“あるものを、ほかのものでなぞらえること”で、日本庭園ではよくつかわれる手法です。植栽や岩を山や島などになぞらえる。枯山水では敷き詰めた砂で水の流れを表現するなどです。
つまり、ここでは庇の瓦の積み重なりを急流に“見立て”た上で、急流から湧き上がる水しぶきと、急流を登り切るために飛び跳ねた鯉を漆喰で追加したのです。
左官職人たちの優れたデザインセンスに感嘆するばかりです。

鶴と亀の漆喰彫刻

「鶴は千年、亀は万年」といえば誰もが知る長寿の象徴で、縁起のよさが売り物の漆喰彫刻です。

漆喰彫刻があるのは、街道に面してある町家の前面で、2階の漆喰大壁と1階の庇屋根が交わるところの建物左右の両端で、向かって右側の鶴、左側の亀で一対になっています。

施主である当主の長寿を願ったか、それともこの家の縁起のよさを通行人にアピールするためでしょうか。

鶴は羽を広げて首を前に長く出す形で、嘴と目にだけ黒く着色されていますが、身体は漆喰の白のままです。

一方、亀は、甲羅に亀甲紋が彫られ、手足・頭がちゃんと付けられています。尾には体と同じくらいの大きさの髭のようなものが付けられています。これは緑藻(りょくそう)といい、水中で長生きした亀の背に付いたもので、長寿を象徴する縁起物の亀には欠かせないパーツです。緑藻が付いた亀を蓑亀(みのがめ)といい、実際にもいるのだそうです。

<見学のポイント>
●関宿新所、街道北側にあります。
●余り大きくはありません。
●漆喰の白壁が目印になるはずです。


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窓付きの幕板

“幕板(まくいた)”とは、関宿の町家の庇の軒先から幕のように垂れ下がっている板のことです。

風雨が激しい折、店先に雨露が入り込み、商品や客の荷物を濡らさないよう付けられたものとされ、“霧除(きりよけ)”とも呼ばれています。

関宿が宿場として栄えていた頃は、関宿の町家の前面は“擦り上げ戸(すりあげど)”という建具が一般的で、戸を開いている昼間は店先が街道に開放されていました。このため、実質的な効果があったと思われます。

この幕板は、横に長い板に縦に桟木を板の裏側から釘で打ち、桟木の板から突き出た部分を庇屋根を支える軒桁の横面に釘で打ち付けています。桟木は薄い板が変形しないよう等間隔に付けられていますが、軒桁にしっかり固定するのにも役立っています。下が外に突き出るように斜めに取り付けられています。

関宿には違った作り方の幕板もありますが、この形式が最も数が多く普及版といえるでしょうか。ただし、長い横板は決して安価なものではなく、幕板を取り付けることはステイタスの一つでもあったと思われます。現在残る幕板は、実用からというよりは、そうしたステイタスが守ってきたものなのでしょう。

さて、この幕板には数か所に穴があけられています。

雨露をしのぐための幕板ですが、「付けたはいいが店先が暗くなって・・・。」というわけで、明り取りの窓が開けられたのでしょう。

しかし、窓を開けたままではそこから風雨が入り込んでしまいます。というわけで、この幕板では、窓の裏側にスライド式の板戸が仕込まれていて、雨露が激しい折には閉めることができるようになっています。

時々の必要性にあわせ、様々な工夫がなされ、新しい形が生み出されていることは驚きです。

※開け閉めを行う場合には丁寧に扱ってください。土埃が落ちてくることがあります。

左:開いているとき 右:閉まっているとき

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旧田中家住宅(きゅうたなかけじゅうたく)

亀山市指定有形文化財(主屋・離れ・土蔵・長屋門・土蔵の5棟)

関宿の西部「新所」には、“田中三家”(たなかさんけ)と呼ばれる3軒の有力商家がありました。
この旧田中家住宅は、その田中三家の内の一軒、“田中庄右衛門(たなかしょうえもん)家”です。

街道に面した間口が広く、西側に主屋、東側に塀が、前面の位置を揃えて建てられています。
塀の内側は庭と離れ座敷(茶室)になっています。

主屋は江戸時代後期(文政頃か)の建物で、厚い板を並べた庇屋根などに古い時代の名残が感じられます。
また、ミセノマ正面は現在格子戸+ガラス戸になっていますが、中に入ると摺り上げ戸が残っています。
出入口も現在はガラス格子の引き違い戸が入っていますが、その内側は横に引き込む引き大戸です。

※内部はイベントの折などに公開されています。

 


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関地蔵院(せきじぞういん)

jizouin

関地蔵院は関宿では最も古いお寺です。

「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿にとろ」と言われたほど良く知られたお寺ですが、地元では親しみを込めて“地蔵さん”と呼んでいます。

ここでは関宿に伝わる“地蔵さん”の昔話をひとつ。

関の宿場に一体のお地蔵さんがまつられていました。たいへん汚れていたため、里のものが集まって体を洗い清めていた時一人のお坊さん通りました。これが一休和尚でした。せっかくなのでと里の者が地蔵さんの開眼供養(仏さんに魂を入れる行事)をお願いすると、一休和尚は快く引き受けてくれました。

引き受けてくれたはいいものの、一休和尚はお地蔵さんの前でお経(きょう)を読むのではなく、「釈迦(しゃか)はすぎ、弥勒(みろく)はいまだ出(い)でぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵 」と歌を詠み、衣の裾をまくってお地蔵さんに立小便をして行ってしまいました。

里のものはカンカンに怒って、後からやってきた別のお坊さんに開眼供養のやり直しをしてもらいました。そしたらその夜、里の者が熱にうなされ「せっかく名僧のありがたい供養で目を開いたのに、やり直しなど迷わせるようなことをするのか。すぐにやり直せ。」と口走りました。

里の主だったものが相談し一休和尚を追いかけてやり直しをしてもらうことになり、早速に後を追ってやっと桑名の宿で一休和尚に追いつきました。一休和尚にいきさつを伝えると、「今さら関まで引き返すことはできないので、この私の下帯を持って帰ってお地蔵さんの首にかけ、私が読んだ歌を3回唱えなさい。」と教えてくれました。

里の者が関に戻り、一休和尚に言われたとおりにすると、熱でうなされていたものは元通りの元気な姿に戻りました。関の地蔵さんが麻の布を首に巻いているのはこの時からなんです。

この昔話の主役”一休”は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」です。天皇家につながる血筋の人とされており、テレビアニメ『一休さん』でもそのように描かれていました。テレビアニメの一休さんはかわいらしい子ども時代のお姿ですが、数々伝わっている面白い説話からは、決して型にはまらない常識破りの人物像が浮かんできます。ですから逆に、関の地蔵さんのこの昔話も「然(さ)もありなん」といったところです。

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会津屋の袖壁

会津屋は、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か。」と唄に歌われたという関宿を代表する旅籠のひとつです。関の名所である関地蔵院(地元では親しみを込めて“地蔵さん”と呼んでいます)の門前にあって、朝目を覚ますとそのまま“地蔵さん”を拝むことができる旅籠として有名だったとか。

”建物の両袖から突き出た壁は、関宿の古い町家の多くにある“袖壁(そでかべ)”です。“袖うだつ”とも呼ばれ、火災の折隣家から火が移ってくるのを防ぐ防火のための設備でした。

関宿では町家は正面の柱の位置を揃えて並んでいます。このため、袖壁は大きな屋根を持ち出すための支えとしてや、大きく屋号を記して看板としての役割を果たしていました。

さて、この袖壁を使った看板。江戸から来た人は“ひらがな”を、京から来た人は“漢字”を見るように書きわけられています。街道を旅する人々が進む方向を間違えないようにとの工夫なのだそうです。

関宿の街道筋は一本道。朝旅籠を出て最初に向かう方向を間違えてしまうと、どこまで進んでも決して目的地には近づきません。まず最初に確認すべきは袖壁の文字というところでしょうか。

旅人をもてなしてきた宿場町“関宿”らしいお話です。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。地蔵院の前にあります。
●屋号を記す袖壁も多くはないのですが、ふと街路灯を見ると、町の名前が“漢字”と“ひらがな”で、見る向きによって書き分けられています。


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洋館屋

ここは“ようかんや”の屋号を持つ建物です。
現在は“小万茶屋”という甘味処なのですが、“ようかんや”は食べる羊羹ではありません。屋号の由来は2階にある半円形の窓で、西洋館の“洋館”なのです。

2階の窓を見てください。壁は青い漆喰で作られていますが煉瓦風の目地がつけられています。そして、窓の上部が半円形になっています。これらの特徴は明治時代の初め、日本に伝わった西洋の建築的特徴です。こうした宿場の建物に見られない外観意匠の特徴から、この建物は“洋館屋”と呼ばれるようになりました。

この“洋館屋”は、明治時代、関で製糸場を営んでいた中村安五郎の家でした。当時生糸は日本を代表する輸出品のひとつで、中村安五郎は関において製糸業を大成させた人物です。“洋館屋”は、関における近代産業の萌芽を象徴する建物とも言えます。

<見学のポイント>
●関宿の西部。新所北側。地蔵院の対面。
●青い漆喰壁と半円形の窓がトレードマーク。
●同じく中村安五郎が開いた旅籠“あいづ屋”は西隣。


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高札場

 高札とは、幕府が定めた法度や掟書、宿場の決まりなどを板に記したもので、高札を掲げた場所が「高札場」です。人々に周知徹底することが目的ですから、宿場の入口や中心部など、往来が多く目立つ場所に設けられました。

『東海道宿村大概帳』の記載から、掲げられていた8枚の高札に書かれていた内容を知ることができます。その内容は、生活にかかわる諸規範や、切支丹、火付、盗賊、毒薬・偽薬、徒党(ととう)の禁止などです。

宿場ならではのものとしては“駄賃の定”があります。駄賃は荷物を運ぶ時の運賃で、隣の宿場までの公定の運賃が記されています。

高札場があるこの場所は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期には本陣の役割を果たしていましたが、その後は亀山藩の施設として番所などが置かれていました。

<見学のポイント>
●関郵便局前を目指してください。


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~レア情報~

高札場は、間口11間余あった御茶屋御殿の街道に面したほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、「高サ弐間四尺弐寸 長三間弐尺五寸 幅壱間弐尺」(「御分間絵図御用 宿方明細書上帳 関宿」(服部家文書))の大きさがありました。高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。

江戸時代にあった高札場は、明治10年(1877)に取り壊され、現在の高札場は、平成16年(2004)3月、関宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されて20周年の記念として復元されたものです。

深川屋の庵看板

「庵看板(いおりかんばん)」とは、建物と一体となった屋根が付いた看板のことです。

この看板がかかる「深川屋(ふかわや)」は関宿を代表する老舗菓子舗で、看板の両面には商われているお菓子「関の戸」の名が眩いばかりの金文字で書かれています。

看板の文字は「関の戸」(東面)、「関能戸」(西面)と書かれており、見る面で文字が異なっているのは、店前を通る旅人たちが歩いていく向きを間違えないようにとの工夫と伝えられています。

看板が取り付けられている建物は、町家としては関宿で最も古いもののひとつで、2階正面が虫籠窓がある漆喰大壁になっており、庵看板を引き立てています。現在の店の姿は出格子戸がつけられるなど明治時代中頃のものでしょうか。

<見学のポイント>
●関宿中町南側。関郵便局、関宿旅籠玉屋歴史資料館の向かいあたり。
●看板の金文字が遠くからでも見える。
●看板両面の文字を見比べるべし。
●店内にも歴史ある品々が展示されている。一見の価値あり。
●中をご覧になった後には、銘菓「関の戸」を関宿のお土産にどうぞ。


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~レア情報~

「関の戸」は江戸時代から関宿の土産品としてよく知られており、江 戸時代後期の狂歌師太田南畝(蜀山人)は「ふりし名を ここにとどめて 鈴鹿山 をとにたてたる 関の戸の餅」とよんでいます。日持ちがすることもあって大名行列の大名方が、江戸で暮らす夫人などへの土産として買い求めたと伝えられています。

また、「深川屋」は御室御所(京都仁和寺)御用(おむろごしょごよう)を任されており、御室御所に菓子を届けるための装束や担箱(にないばこ/菓子を入れて担いだ箱)などが店内に展示されています。

今から250年以上前、隣家から火が出た時、家は焼けてしまったにもかかわらず看板は外して守ったと言います。その看板が今でも掲げられているということは、江戸時代と変わらず伝統あるお菓子が作られ、ここで商い続けられているということの証と言えます。

さて、“関の戸”というお菓子の名前は、関宿近辺にあったとされる“関所の扉”に由来しているといいます。お菓子にまぶされた白い和三盆糖は、関所に降り積もる雪を表現しているのだとか。この関所とは、今から1300年ほど前に関宿周辺にあった関所「鈴鹿関(すずかのせき)」のことで、その扉なので関所に設けられた城門ということになるでしょうか。

旅籠玉屋の虫籠窓

ここは、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と言われた関宿を代表する大旅籠のひとつ「玉屋」です。

玉屋はその当主が代々「利(理)右衛門」を名乗り、現在地である中町北側で旅籠を営んでいました。多い時には100人を超える宿泊客があったといいます。

外から見ると建物の正面の虫籠窓が“宝珠”の形にかたどられています。宝珠は仏教に由来する縁起の良い印ですが、旅籠玉屋の屋号「玉屋」にちなんで虫籠窓としてかたどられたのでしょう。

“旅籠玉屋”は、屋敷地と屋敷内にある建造物が市の有形文化財(建造物)に指定されています。また、平成9年(1997)からは「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として公開されています。館内には旅籠であった当時の様子が、玉屋に残っていたお膳や食器類などによって再現されているとともに、江戸時代の旅に関する史資料や浮世絵などが展示されています。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。中町北側。関郵便局の東隣。
●資料館の開館は毎週月曜日と年末年始を除く毎日。月曜日が祝祭日の場合は火曜日が休館。4・5月、10・11月は毎日開館しています。
●入館料は大人300円、子ども200円。30名以上の団体はそれぞれ50円引き。
●館内の案内を希望される方は入口の受付で申し出てください。団体客等がない時には案内をしてくれます。


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~レア情報~

“宝珠”は先(上)が尖った球形のものです。しかし、玉屋の“宝珠”を外から見ると、上に三つの炎があるために先が尖っているかどうかはわかりません。なので、ぜひ入館していただいて、2階の座敷から“宝珠”の虫籠窓の裏側を見ていただきたいのです。

2階の座敷から“宝珠”の虫籠窓を見ると、虫籠窓の障子が外からの日の光を柔らかく反射して、“宝珠”の球形の輪郭を浮きあがらせています。これは、たまたまそうなったのではありません。球形が浮き上がるように、漆喰壁がその形で彫り込まれているのです。

“宝珠”は街道からだけでなく、宿泊客が泊まる客室からも見られるように作られているのです。街道からは炎が上がる勢いのある“宝珠”を、そして屋内からは光と影で浮かび上がる“宝珠”をです。

こんな“もてなし”を考え付いた玉屋主人とそれを可能にした職人さんたちに、拍手を送りたい気分になります。

中町の景観

中町は、東海道五十三次の宿として栄えた関宿の中心部です。

この場所から西を見た景観は、関宿を特徴づける景観のひとつです。

中央に東海道が伸び、その両側に伝統的な建造物が並んでいます。街道の正面には寺院の屋根と鈴鹿の山々が重なっています。

この景観は、関宿の成り立ちが表れた景観でもあります。

 関宿は天正年間(1573~1592)に町建てがされたとされていますが、当時の宿の中心部分がこの中町であったとされています。当時、この地域は“関地蔵”と呼ばれており、慶長6年(1601)に徳川家康が関宿を東海道の宿のひとつとした時の朱印状でも「関地蔵」とされています。“地蔵”とは、写真で街道の正面に写っている寺「関地蔵院」のことで、天正年間頃には既に現在の場所にあり、関宿はこの寺の門前町のような小集落であったと考えられています。

街道の正面にお寺の屋根が見えることは珍しく、こうした関宿の成り立ちがこの景観には表れていると言えます。

街道の両側の建物に目を移すと、右には関宿を代表する大旅籠「玉屋」が、左には「関の戸」の金文字がまぶしい老舗和菓子屋の庵看板が見えています。中町は関宿の中心部だけあって、一つひとつの町家が大きく、華やかな外観をしています。

このように一つひとつの町家から、寺の屋根、背景となる山々までがくっきりと見えるのは、昭和63年(1988)に中町の街道部分から電線・電話柱を撤去して見えなくしたことと、平成4年(1992)に街道の地面を土の道のように茶色く舗装したことによります。

江戸時代の旅人たちも見たであろうこの景観は、住民と行政とが一体となったまちなみ保存事業によって復活し、その後も大切に維持されています。

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橋爪家(はしづめけ)

橋爪家は両替商を営み、江戸にも出店を持つ豪商でした。

まちなみに面して三角形の屋根を見せる(“妻入(つまいり)”といいます)正面意匠は、“平入(ひらいり ※四角形の屋根が見える)”が一般的な関宿では珍しいものです。ただ、こうした外観意匠は明治時代の改造によるものとされています。

主人橋爪休以は、江戸で大火があったことを街道を通る人から聞き、いち早く建築資材を集めて富を得たということです。
商売で得た富をもとに、関宿周辺での新田開発や河川改修などの事業のほか、地蔵院の建設などにも私財を投じています。

また、財政が窮乏していた亀山藩主板倉家(後に備中高梁に転封)へ大名貸しも行っていました。
幕末期、備中松山藩の財政改革に尽力した山田方谷(やまだ ほうこく)は、この橋爪家への借財の処理にもかかわっていたようです。

 

 

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伊藤本陣

本陣とは、大名や旗本、勅使、幕府役人などが休泊した特別な宿泊所のことで、旅籠とは異なり一般の旅人を泊めることはありませんでした。

「伊藤本陣」は、関宿に二軒あった本陣のうちのひとつで、江戸時代のはじめから本陣とともに、年寄役を勤めていました。

浮世絵師歌川広重は、東海道五十三次の宿を題材にした浮世絵シリーズの中で、関宿の本陣を描いた浮世絵「本陣早立」を残しています。「本陣早立」が関宿に二つあった本陣のどちらを描いたものであるかははっきりとしていませんが、描かれた建物の配置から街道の南側にあった伊藤本陣だったのではないかと言われています。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。中町の南側。
●正面右手に大きく石碑があります。
●浮世絵を常時見ることはできるところはありませんが、「関宿旅籠玉屋歴史資料館」に絵葉書が販売されています。


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~さらに詳しく~

屋敷は中町三番町の南側にあり、間口は11間余(約20メートル)で、現在残っている街道に面した主屋とともにその西側には檜皮葺の唐破風門がありました。唐破風門から屋敷に入ると、その奥には“式台玄関”、“上段の間”などを備えた御殿があり、総建坪は269坪(約890平方メートル)もあったと記録にあります。

現在残っている建物は街道に面した主屋のみですが、ここは本陣の主人家族の住まいや、大名行列のための様々な荷物の保管、警護役の控えなどとして使われていた建物です。

百六里庭

まちなみを歩いていると、中町の南側に“眺関亭(ちょうかんてい)”の看板が付けられた建物があります。建物にはもう一つ“百六里庭(ひゃくろくりてい)”の看板もかかっています。少し混乱するかもしれませんが、“百六里庭”が建物の奥にある小公園(ポケットパーク)の名前で、“眺関亭”が街道に面してある建物の名前です。

公園の名前“百六里庭”は、関宿が江戸から106里(400キロメートル余)の位置にある事に由来しています。建物の入口には「日本橋 関宿からは 百六里」と書かれた「関宿かるた」の木札がかけられています。また、“眺関亭”の名前はこの建物から関宿のまちなみを眺めることができることからつけられたものです。建物の中にある階段から上に上がると屋根の一部が取り除かれていて展望台のようになっています。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。中町の南側。
●展望台から西を見た景観は、関宿随一のビュー・ポイント。
●東側のまちなみを撮影するときには、自撮り棒を使うなんて奥の手もあります。
●展望台から屋根の上に上がることは絶対にしないでください。
●向かいにある「関まちなみ文化センター」裏にトイレがあります。


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~さらに詳しく~

ここは、平成10年(1998)、当時空地であったこの場所に、近隣にお住いの方々や小中学生などが集まったワークショップにより提案された計画案に基づいて整備された小公園です。そして、小公園と建物の名前も町民からの提案により決定されました。

展望台に上がると、正面には瓦屋根越しに観音山や関富士といった近隣の山々の緑を(ちょっと電柱が邪魔に思えるかもしれません)、東を見ると軒の並ぶ関宿のまちなみを、西を見ると瓦屋根の間に通る東海道とその突き当りにある地蔵院本堂の大屋根を望むことができます。展望台から西を見た様子は、関宿の成り立ちが現れた関宿の最も特徴的な景観です。

川北本陣

川北本陣は、関宿に2軒あった本陣のうちのひとつです。本陣であった当時の建物はすでに失われており、屋敷があった場所のほぼ中央に「川北本陣跡」と記した石碑が建てられています。

川北家は代々「久左衛門」を名乗り、江戸時代の初期から関宿の本陣とともに“問屋(とんや・といや)”を兼ねていました。問屋が置かれていたのは、屋敷東側の現在山車倉があるあたりです。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。中町北側。
●目印は「川北本陣跡」の石碑と山車倉。
●「関宿まちなみ保存会」は、以前から本陣の復元を夢にしています。


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~さらに詳しく~

川北久左衛門は、関宿が東海道の宿となった頃にはすでに関宿の有力者で、慶長6年(1601)将軍家康が伏見で伝馬朱印状(「駒引の朱印」)を各宿に渡したときには、久左衛門が伏見に赴いています。

屋敷は中町三番町の北側にあり、間口19間半(約35メートル)、建坪は凡395坪(約1,300平方メートル)程あり、残された図面によると、門構、式台玄関や上段の間などを備えた御殿のある堂々としたものです。江戸時代に参勤交代の大名などの宿泊所となったことはもちろんですが、明治天皇は明治元年(1868)の御東幸の行き帰り、そして翌明治2年(1869)の伊勢神宮参拝の折にも川北本陣に宿泊されています。

しかし、他の宿場の本陣と同じように、参勤交代など大名の定期的な街道の行き来がなくなると、大名などの宿泊のために整えられた御殿などを維持することが難しくなり、明治時代の早い時期に建物などは取り壊されました。延命寺の山門(市指定有形文化財)は、明治5年(1872)に川北本陣から移築された建物で、川北本陣に関係して唯一残されている建物です。

岩木屋(いわきや)

岩木屋(いわきや)は、酒造業及び味噌・醤油醸造業を営んでいた商家です。

主屋は明治17年(1884)の建築です。
関宿の町家の多くは大屋根に“起り(むくり)”を付けていますが、岩木屋は特に“起り”が大きいのが特徴です。

正面右手、座敷の前面に出格子戸が付けられています。
これも、関宿の明治期の町家の特徴的な意匠と言えます。

※起り(むくり):中央が膨らんだようになっている屋根。寺院本堂などにある中央が凹んだ“反り(そり)”の反対。

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三番町山車倉(さんばんちょうやまぐら)

中町北側、川北本陣跡の東に、他の町家より背の高い建物があります。

お祭りに曳き出される山車を収納している建物で、関宿では「山車倉(やまぐら)」と呼んでいます。

関宿の夏祭り(関神社の祭礼)には各町から山車が曳き出されます。江戸時代後期、祭りの最盛期には各町が山車を所有して16台もの山車がありましたが、現在は4台が残っています。

この山車倉には、中町三番町が所有する山車が収納されています。

亀山市指定民俗文化財(有形・無形)

 

※この山車倉から東へ300メートル程行ったところに「関の山車会館」(令和元年7月開館)があります。山車や祭りの様子をご覧になりたい方は、ぜひご見学ください。

 


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脇本陣鶴屋

関宿で脇本陣を務めていたとされる“鶴屋”(西尾脇本陣)です。“関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か”とうたわれた関宿を代表する旅籠でもありました。

どの宿場にも、本陣・脇本陣であったと伝わる家があります。本陣とは大名や旗本、幕府の役人、勅使などが宿泊した格式の高い宿のことで、各宿場に1~2軒が整えられていました。脇本陣は本陣を補佐する役割を担った宿のことで、本陣に次ぐ格式を持ち、各宿に数軒がありました。

この“鶴屋”を見てみると、間口は6間ほどあって関宿の一般的な町家と比べると規模が大きく、黄色い漆喰壁に虫籠窓が開けられていますが、門・玄関などはなく特別立派には見えません。ただ、正面左手(西)の座敷上部の壁に、三角形の屋根“千鳥破風(ちどりはふ)”が付けられていて目を引きます。

破風(はふ)は、本来は屋根の妻(つま 屋根の三角形に見える側)のある部分を指しますが、あえて屋根の平(ひら 屋根の四角形に見える側)や壁に取り付けて建物の格式を高める屋根状の飾りのことを言います。寺院や神社、お城の建物などでよく見かけます。

鶴屋では脇本陣としての格式を示すとともに、建物への入口を示す門の役割を果たすものとして、“千鳥破風”が取り付けられたのではないかと考えられます。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。中町北側。
●やはり“千鳥破風”を目印に探していきましょう。
●“鶴屋”の西隣には、“山車倉(やまぐら)”、“川北本陣跡”があります。
●現在は個人の住宅です。宿泊はできません。


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関まちなみ資料館

 

「関まちなみ資料館」は、関宿の典型的な町家の内部を公開する資料館です。関宿旅籠玉屋歴史資料館と合わせて有料で公開されています。

「関まちなみ資料館」の建物は、江戸時代の後期、文政8年(1823)3月にあった大火「真弓火事」で類焼後再建された建物です。仕舞屋(しもたや)とされ商売は行っていなかったようです。

正面は二階の低い厨子二階建てで、二階前面には小さな虫籠窓が付けられています。一階前面は座敷前が引戸式の格子戸で、西側に戸袋が付けられています。ミセの前は現在は格子戸がはめられていますが、その内側には本来の建具「蔀戸(しとみど)」が残っています。折り畳み式の縁台「ばったり」や、「関まちなみ資料館」と彫られた吊り下げ看板など、関宿の町家の典型的な外観意匠が残っています。

<見学のポイント>
●関宿の中心部。中町四番町南側。
●気が付かずに通り過ぎてしまう人がいるくらい、まちなみに溶け込んでいます。
●くどい説明はありません。当ブログを見ながらの見学がおすすめです。
●管理人の女性にお願いすれば、蔀戸の開け閉めは実演してくれるかもしれません。
●超レアなマンホールカードの配布場所です。


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~レア情報~

それでは、正面左手(東側)にある出入口から屋内に入ることにしましょう。建物の出入口は潜戸(くぐりど)付きの板大戸です。土間は街道から敷地裏までまっすぐに伸びる「通り土間」で、通り土間の奥側は「かまど」や「井戸」のあるカッテになっています。カッテの上部は吹き抜けの煙出しです。

居室は通り土間に沿って2列に5室が並んでいます。居室はどれも天井が低く、背の高い人であれば頭をぶつけてしまいそうです。表二階へは座敷前面の部屋から「箱階段(はこかいだん)」で上がるようになっています。畳が敷かれた座敷になっているものの、天井は屋根の勾配にあわせて斜めに張られるほど低くなっています。

瑞光寺(ずいこうじ)

瑞光寺のせこ

狭い小路の先にお寺の門と本堂の屋根が見えています。
関宿では通りに面して町家がすき間なく建てられていますが、ところどころに“せこ”と呼ばれる小路があります。
この小路はまちなみの裏手にある田畑に行くための道で、江戸時代の絵図では“耕作道”と記されることもあります。

また、特にまちなみの北側では、まちなみの裏手に寺が並んでいるため、正面にお寺の門や本堂の屋根が見えることでもわかる通りお寺への参道にもなっています。
この正面にあるのは「瑞光寺(ずいこうじ)」という曹洞宗のお寺です。

瑞光寺は、天正年間頃にこの地を治めていた関氏の菩提寺で、本堂の屋根の鬼瓦には揚羽蝶(あげはちょう ※平家の家紋)が彫られています。
また、境内には“権現柿(ごんげんがき)”と呼ばれる(亀山市指定史跡)1本の柿の古木があります。

権現とは江戸幕府を開いた徳川家康公のことで、家康が上洛の際、同郷であった当時の住職を訪ね境内にあった柿を賞味したといわれています。
「家康が食べた柿の種から芽を出した」との異説もあって真偽はわかりません。
ただし、宿場町関宿の名所のひとつとして、家康を慕う多くの人々が参拝にこの寺を訪れていたようです。


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屋根の高さの変化

写真で並んでいる3軒の町家。屋根の高さが奥(西)に行くにしたがって順に高くなっています。手前の最も低い建物は江戸時代に、真ん中の2軒目は明治時代に、もっとも高い奥の建物は昭和初年に建てられたものなのです。

関宿の町家では、時代が新しくなるにしたがって、2階の高さが高くなっていきます。

生活が充実するにしたがって、1階だけであった居室が、物置程度にしか使用していなかった2階へと広がっていき、これに従って屋根も高くなっていくのです。

もちろん、宿場当時に旅籠を営んでいた町家では、すでに2階が旅人の宿泊などに使う部屋として発展しているものもありますが、2階の天井は頭がつかえるほどの高さしかないのが一般的です(これを“つし二階”と呼びます)。

一般に切妻平入のまちなみでは、どこまでも同じ建物が並んでいるように見え、面白みに欠けると感じられる方も多いかもしれません。しかし、屋根の高さのちょっとした変化により、まちなみに心地よい変化が付け加えられるとともに、人々の暮らしの変遷を読み取ることができるのです。

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馬繋ぎの環金具

町家の通りに面した柱に付けられた直径5㎝程の丸い金具です。人を乗せたり荷物を運んだりした馬の手綱をかけるためのもので、“馬繋ぎの環(金具)”と呼ばれています。

この環金具は、柱の中ほど、大人で言えばヘソの高さ位の位置に付けられています。関宿の町家では、同じような輪金具が土台や柱の根本などの低い位置に付けられていることに気が付きます。これも使用法としては同じなのですが、繋がれた動物が馬ではなく牛だったそうです。そのほうが、牛や馬がおとなしく待っていると言うのです。

つまり、関宿では馬は柱の中ほどの高い位置で、牛は柱の根本や土台など低い位置でつないだという訳です。そうなると、低い位置に付けられた環金具は“牛繋ぎの環金具”とでも呼んだほうが相応しいのかもしれませんが、そんな風に呼ばれていることは聞いたことがありません。

<見学のポイント>
●関宿の各所。いくつ残っているのかは調べたことがありません。
●写真上(馬用)が中町五番町、下(牛用)が新所地蔵町です。 馬繋ぎの輪金具の説明「輪金具に 手綱つながれ 馬や牛」は『関宿かるた』の「わ」。


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延命寺山門(えんめいじさんもん)

関宿には10ケ寺ありますが、関地蔵院を除く9ケ寺はまちなみの北側に並び、寺町のようになっています。
延命寺(えんめいじ)は、浄土真宗本願寺派のお寺です。

延命寺の境内入口に門があります。こうしたお寺の表門にあたる門を“山門(さんもん)”といいます。

延命寺山門は“薬医門(やくいもん)”と言われる建築形式で、17世紀後期の建築と言われています。
関宿に二軒あった本陣のひとつ、川北本陣から明治5年(1872)に移築されたものです。

川北本陣に関わる建造物は、本陣としての役割を終えるとそのほとんどが取り壊されてしまいました。
延命寺山門は川北本陣の唯一と言える遺構です。

亀山市指定有形文化財(建造物)

 

※山門:お寺には「山号(さんごう)」が付けられることが一般的です。お寺の正式名称として「○○山□□寺(○○さん□□じ)」ということがありますが、その「○○山」が山号です。ここから派生してお寺の表門を「山門」(「三門」と書くこともある)と言います。

※薬医門(やくいもん):本柱と控柱、あわせて4本の柱で切妻屋根を支える門の形式です。名前の由来は、医者の門として使われたとの説や、「矢を喰う」が転じた(武家が好んだ)との説など、諸説があります。

 


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龍虎の漆喰細工(りゅうこのしっくいざいく)

toraryuu

関宿の町家には、細かな意匠が施されたものがいくつかありますが、この町家にある「龍虎(りゅうこ)」の漆喰彫刻は色付けがされており、他より目を引く存在です。

「龍(りゅう)」と「虎(とら)」はどちらも能力、力量のある者のたとえです。二つをまとめて“龍虎(りゅうこ)”といい、互いに力が拮抗している状態、ライバル関係を表しています。

この建物では、左右の両袖壁で龍と虎が睨みあっているわけです。これでは悪霊も入り込む隙はありません。

これらの彫刻は、左官(さかん)職人が、壁に塗る”漆喰(しっくい)”を材料として、壁塗り道具である“こて”を使って作られており、その緻密なつくりには関宿の町家(まちや・ちょうか)づくりに関わった“職人の技(わざ)”が表れています。

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関の山車会館

令和元年7月6日(土)開館!!

毎年7月20日前後の土日、関宿の夏の風物詩「関宿祇園夏祭り」が行われます。

祭りでは、豪華な幕や提灯で飾られた“山車(やま)”が曳き出され、お囃子とともに関宿を練ります。

祭りの折には、狭い街道は曳き出された山車や見学の人々で身動きが取れないほどになり、また、各町内が競い合って豪華に飾ったことから、“これで限度いっぱい”の意味で使われる「関の山(せきのやま)」の語源になったとされています。

江戸時代後期には16台の山車があったと言いますが、現在でも4台の山車が残っています。

祭りのクライマックスには、4台の山車が揃い、山車の上部“屋台”(台車より上)をくるくると回す“屋台回し”が行われます。

「関の山車会館」は、この関宿の夏祭りに曳き出される山車とその付属品を収蔵展示するとともに、関宿の夏祭りに関わる様々な展示が行われています。また、お囃子の伝承活動等にも活用される資料館です。

 

<休館日・開館時間・入館料>

開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:月曜日 ・年末年始(12月29日から1月3日)
※月曜日が祝日または振り替え休日にあたる時はその翌日
入館料:
関の山車会館単独 大人300円(250円)/小人200円(150円)
関宿資料館との共通 大人500円(400円)/小人300円(200円)
※( )内は30名以上の団体料金
見学者用駐車場はありません
関宿観光駐車場をご利用ください(徒歩10分程)。

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御馳走場

東海道と関神社参道入口の角にある小さな広場は“御馳走場”と呼ばれています。
普段“ご馳走”というと、“ぜいたくな料理”といった意味ですが、ここで料理が作られたり、人々に料理が提供されたりしたわけではありません。

“馳走”の二文字は本来“走りまわる”の意味で、これが“もてなす”“世話をみる”の意に転じたそうで、関宿の“御馳走場”も大名行列を宿役人が出迎えたり見送ったりする場所だったそうです。

大名行列は“御馳走場”で出迎えを受けると隊列を整え、「下に、下に」の掛け声に合わせて宿泊する本陣まで整然と行列した。ということなのです。

宿の“御馳走場”は、この関神社参道入口の他に、西追分、関地蔵院にもありました。大名行列を迎えるために駆けつけてくる宿役人の姿が目に浮かんでくるようです。

<見学のポイント>
●関宿を東(江戸方向)に向かってください。中町と木崎の境あたり。
●関神社参道の入口東側の角。
●ひっそりと案内の石柱が立っています。
●車がよく曲がる場所です。各方向からの車にお気を付けください。

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長谷屋(はせや)

長谷屋(はせや)は、関宿木崎(こざき)にある宿屋です。
庇の軒下に吊り下げられた木製の看板には「休泊 はせや伊三郎」の文字が彫られています。

※看板の両面を見比べてください。
西側は「長谷屋」、東側は「はせや」になっていて、見る向きによって字体が変えられています。

宿場にあった宿屋には「旅籠(はたご)」と「木賃宿(きちんやど)」がありました。
一般には「旅籠」は設備やサービスが整った高価な宿屋のことです。

一方、「木賃宿」は建物が質素で安価な宿屋で、行商人等が多く宿泊していました。
「木賃宿」の“木賃”とは煮炊きに用いる“薪代”の意味で、宿泊客は自炊したわけです。

※現在は一般の住宅ですが、ミセノマには長谷屋に関わる品々が展示されています。

 


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一之鳥居

関宿の東の入口“東の追分”にあるこの鳥居は、関宿では“一之鳥居”として親しまれているものです。“一之鳥居”というのは伊勢神宮に向かう最初の鳥居という意味なのですが、実際には伊勢神宮の鳥居ではなく、伊勢神宮に向かう人々への“道しるべ”として建てられたものです。

この鳥居がこの場所に初めて建てられたのは18世紀の初め頃と考えられていますが、当時は伊勢講の人々からの寄進により建てられ、関宿の人々によって管理されていました。

現在は20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮にあわせて建て替えが行われており、今の鳥居は平成27年6月に建てられたものです。

鳥居の用材は式年遷宮で建て替えられた伊勢神宮内宮宇治橋東詰(内側)にある鳥居の旧材で、伊勢神宮から下付を受け、傷んでいる箇所の繕いをした後、住民総出の“お木曳”を経て建てられました。

次回の建て替えは平成47年5~6月ころです。

<見学のポイント>
●関宿の東の端。南側。
●JR関西本線「関駅」からは、駅を出て国道1号沿いに右(東)に進み、信号のある交差点「東海道関宿東」で左(北)に折れ、坂を上がると突然現れる。徒歩10分程。
●まちなみからは、ただひたすら東に進むと右手に突然現れる。個人的にはこちらのコースがおすすめ。東海道を歩いてきて、いよいよ伊勢に向かうという気分になれる。
●車の通行が多いため、写真撮影などには注意が必要。
●周辺には常夜灯などもあるが、危険なので登ったりする行為は厳禁。

 

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東追分

“東の追分”は関宿に二つある追分のうちの一つです。

関宿は東西約1.8キロメートルの長さがありますが、その東西両端に“東の追分”、“西の追分”の二つの追分があり、東の追分からは“参宮道(伊勢別街道)”が、西の追分からは“加太越え奈良道(大和・伊賀街道)”が、それぞれ東海道から分岐しています。

東の追分から分岐する参宮道は、その名の通り伊勢神宮方面へ向かう街道で、東の追分から江戸橋(三重県津市)で伊勢街道に合流します。東の追分から伊勢神宮外宮までは15里(約60キロメートル)の距離がありました。

東の追分の街道分岐点には、街道を跨ぐように鳥居が建てられています。この鳥居は、“伊勢神宮一之鳥居(いちのとりい)”と地元では呼ばれています。

鳥居の東側には1基の常夜灯があります。

この常夜灯は、石柱に、
「常夜灯 大阪 津国屋重右衛門 江戸 嶋屋佐右衛門」
「元文五庚申歳正月手板組中」 と刻まれ、

火袋には、
「享和元年辛酉天 仲夏下旬再造替」
「工匠 當國内宮領長峰住 徳田庄九郎 親範」
と書かれているようです。

また、常夜灯の周りにある石製の柵には「安政2年(1855)」の文字が刻まれています。

こうしたことから、この常夜灯は元文5年(1740)に設置され、石柱に乗る火袋だけは享和元年(1801)に作り替えられ、安政2年(1855)には常夜灯の周りに石柵が設置されるというように、手入れがされながら約280年にわたり火を灯し続けている(現在は電気ですが)ことがわかります。

東の追分には、このほかにもいくつかの石碑や常夜灯があったようですが、現在は市が取り外した上で保管しており、現地に戻される機会を待っているようです。

東の追分にある鳥居、常夜灯、石碑などは、東の追分が伊勢神宮へ向かう街道の玄関口であることを示す“道しるべ”となって、伊勢参りの人々に道を示し続けています。

<見学のポイント>
●関宿の東端。
●JR関西本線「関駅」からは、駅を出て国道1号沿いに右(東)に進み、信号のある交差点「東海道関宿東」で左(北)に折れ、坂を上るとある。徒歩10分程。
●まちなみからは、ただひたすら東に進むと右手に突然現れる。個人的には、こちらのコースがおすすめ。東海道を歩いてきて、いよいよ伊勢に向かうという気分になれる。
●危険ですので、常夜灯には登らないでください。もちろん鳥居にも。

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