館内案内
<正面 二階> 旅籠玉屋のシンボル宝珠の虫籠窓 | |
<正面 一階> 浮世絵師歌川広重が描いた関宿の旅籠 | |
<ミセ> 旅籠繁盛の印 講札 | |
<ミセ> 摺り上げ戸 | |
<チョウバ> 帳場の設え ところで、当時の宿泊賃はいかほど? | |
<通り土間 カッテ> 吹き抜けの広い土間 | |
<通り土間 カッテ> これは何? | |
<通り土間 カッテ> 「セキ」「たまや」などの名が入れられた食器類 | |
<表二階> 中からも見える宝珠 | |
<二階座敷> 宿泊客の様子 | |
<中庭> 中庭越しに離れ座敷を見る | |
<ハナレ> 上客を泊めた離れ座敷 | |
<ハナレ> 客を喜ばせた見事な欄間彫刻 | |
<井戸端> 井戸端を通って土蔵に | |
<土蔵> 土蔵の中には何が? | |
<裏庭> 裏庭から離れ座敷を見る |
宝珠の虫籠窓
旅籠玉屋のトレードマークと言えば何といっても虫籠窓にされた“宝珠”です。
“宝珠(ほうじゅ)”は仏教に由来し、「意のままに願いをかなえてくれるもの」の意がある霊験あらたかな印で、先の尖った球形をしています。
“宝珠”と聞くのは初めてかもしれませんが、実は多くの人が“宝珠”とは意識せずに、どこかで見ているのではないでしょうか。例えば、神社の高欄(縁の囲い)の柱の先端には宝珠(擬宝珠)が付けられています。宝形屋根の一番高いところに置かれた露盤にも宝珠が乗っかっています。救世観音の手には宝珠が乗せられています。稲荷神社の神紋は“宝珠”で、お稲荷さんの使いであるキツネ様の象徴でもあるので、稲荷神社へ行くと幟旗などにも“宝珠”があります。ねっ。どこかで見たことがあるでしょう。
いずれにしろ、炎が勢いよく上がる様は物事の始まりを感じさせ、意のままに願いをかなえてくれる、とても縁起の良い印なのです。
改めて玉屋の宝珠を見てみましょう。球形を示す円の上に3つの炎が並んでいます。先が尖った球形から炎が上がる“火焔宝珠”と言われるものです。炎は渦を巻き、その先は高く上に上がっており勢いを感じます。球形を示す円の部分の上半分には横に2本の筋が、下半分には縦に3本筋が入っています。この部分が虫籠窓になっていて、建物の内側にはめられた障子戸が少し見えています。この部分が窓になっているからこそ、玉屋の宝珠は漆喰彫刻ではなく虫籠窓なんです。
旅籠玉屋のトレードマークとして、宝珠が用いられたことにはいくつかの理由が考えられます。
まずは、やはり“宝珠”は玉屋の屋号にぴったりの印です。これは説明の必要がないでしょう。
二つ目は、“宝珠”は誰もが知る目立つ印です。玉屋を目指して東海道を旅してくる旅人たちに、こんなにわかりやすい目印は他にはありません。
そして三つめは、“宝珠”には泊まる旅人たちを喜ばせる縁起のよさがあります。縁起の良さは、客人だけでなく玉屋の主人にとっても望むところだったでしょう。
東海道の旅籠の繁盛ぶりを浮世絵にした絵師がいます。東海道五十三次浮世絵を世に出した歌川広重です。広重は、東海道五十三次浮世絵で多くの旅籠を描いていますが、関宿でも「旅籠屋見世之図」を残しています。
「旅籠屋見世之図」は、天保12年(1841)~13年(1842)に江戸にあった“江崎屋”を版元として刊行された“行書版”や“行書東海道”と呼ばれている全55枚の東海道五十三次浮世絵の中の一枚です。
関宿の旅籠の店先の様子が広重らしく生き生きと描かれており、旅籠玉屋(「関宿旅籠玉屋歴史資料館」)の往時の様子を伺うことができる絵として、関宿旅籠玉屋歴史資料館の入館券には「旅籠屋見世之図」が印刷されています。
建物の入口に描かれているのは、旅籠の番頭と旅人でしょうか。番頭は愛想よさそうに笑いながら旅人の一人と話しています。旅籠の“売り”を聞いているのか、値段の交渉でもしているのでしょうか。旅人と宿の人々の掛け合いが聞こえてきそうですね。一方、後ろの旅人は交渉事は前の同行者に任せてよそ見をしています。前の旅人が先達なのでしょう。
店先には、荷物を置き、板間に腰を掛けて足を洗う旅人がいます。旅籠が宿泊者にする最初のサービスは足洗桶やたらいを出すことでした。ミセの板間にいるもう一人の旅人は裸足ですからすでに足を洗い終わったのでしょう。二人はお互いに顔を見合わせながら談笑しているように見えますが、荷物を見ると座っているのは商人。板間に立っているのは武士のようで、一緒に旅をしているのではなさそうです。互いにその日の宿が決まり、ホッとして会話が弾んでいるのでしょうか。
そして、画面左には、前掛けをつけた老婆が旅人の袖を引っ張っています。地面が少し黒くぼかされていますから時刻はすでに夕刻です。関宿には50軒ほどの旅籠がありましたから、宿泊客を確保するため少々強引な客引きもよくある事だったのでしょう。
旅人は他にお目当ての宿があるのかちょっと困惑した表情です。老婆に袖を引かれたのでは無下にもできないといったところでしょうか。袖の引き方が少し遠慮がちに見えるのは、ひょっとすると老婆の熟練の技なのかもしれません。
ちょうどこの記事を書いているのは絵と同じ夕刻。100数十年前、我が家の前でこんな駆け引きが繰り返されていたのかと考えると、とても楽しくなってきます。
旅籠繁盛の印 講札(こうふだ)
旅籠玉屋(「関宿旅籠玉屋歴史資料館」)の店先、西側の壁に3枚の板が掲げられています。これらには、「日の丸組(京都)」「一万人組(摂丹)」「灯籠講(大阪)」と書かれてあって、“講札(こうふだ)”であることがわかります。
“講”のうち、関宿の旅籠にとっては最も関係深いのは“伊勢講”と言えます。多くの旅人を関宿に誘い、街道や宿の整備などにも協力する、宿の繁栄には欠かせない存在でした。
“伊勢講”は同じく伊勢神宮への信仰をもつ人々の集まりの総称で、日本各地に名前を違えてありました。これに参加する講員は参詣のための費用を積み立て、集まった資金で代表者を順次参詣させました。このことを“代参(だいさん)”と言います。
こうした形式は、現在の団体旅行の原型ともいわれるもので、講員が多ければ資金も潤沢となって多くの人を代参させることができ、数十人、場合によって百人を超える規模の団体旅行となりました。代参者の中には数回の代参をすでに経験した“先達(せんだつ)さん”がおり、代参者を引率しました。
代参では毎年、あるいは数年に一度は参詣するため、参詣の度に利用する指定宿“定宿(じょうしゅく)”が講ごとあり、その目印として旅籠の店先に掲げられたのが講の名前を記した“講札”でした。玉屋に残る講看板のうち一番右にある「灯籠講」の講札には、伊勢での宿泊場所となるい「御師 宇仁舘太郎太夫」の名もあります。
代参者が参詣を終え国に戻ると、講員が集まった報告会が行われました。旅慣れない講員の失敗談は、恰好の土産話となって会席を盛り上げたことでしょう。
“講札”は伊勢参りなどの講の指定宿(“定宿(じょうしゅく)”)であることを示すもので、旅籠にとっては店先に掲げる“講札”が多ければ多いほど、安心して泊まれる宿であることを旅人に示すことができ、店先の目立つところに掲げていたのです。
隠れた関宿名物 摺り上げ戸
関宿の町家の一階開口部は、今ではガラス戸や格子戸がはめられていることが多いのですが、以前は “摺り上げ戸(すりあげど)”と呼ばれる建具が一般的でした。
摺り上げ戸は、柱に彫られた“戸溝(とみぞ)”に沿って、板戸を上げ下げする形式の建具です。戸を上げて開放すると、3枚ある板戸は開口部の上部の梁(“丁物(ちょうもの)”という)の屋内側に作られた戸袋に収められます。“木製のシャッター”あるいは“上げ下げ式の雨戸”と言えばわかりやすいかもしれません。
板戸を上げて開放すると、通りに面した部屋であるミセノマは吹きさらしになり、板戸を下ろして閉めると屋内は真っ暗になります。屋内の明暗や風雨による雨露は、3枚の板戸のうち1枚ないし2枚を上げ下げすることで調整できますが、店の機能性と通風採光といった快適性、あるいは夜間の防犯などとの両立が望めず、夏の夜間の暑さ、冬の昼間の寒さは何とも凌ぎ難いところです。
そんな建具の特性からか摺り上げ戸は現代生活には不便な点が多く、ガラス戸や格子戸へと替わっていったのだと思われます。現在でもつかわれているのは資料館など限られた建物だけになってきています。
帳場の設え
入口土間の先にある格子戸を通り抜けるた場所が「ちょうば」です。
「ちょうば(帳場)」は、現在のホテルのフロントやカウンターに相当する場所です。帳場には三つ折りの帳場格子(ちょうばごうし ※「結界」ともいう)を置いて、その内側に、主人や番頭が座り帳付けなどの事務を行っていました。
現在の旅籠玉屋でも主人(人形)が座って帳付けをしています。
ところで、当時の宿泊賃はいかほどだったでしょうか。
廊下に展示されたパネルには「旅籠銭」について下記の通り書かれています。
「河内国茨木郡西橋波村庄屋 出田久右衛門が、天保10年(1839)廻米のため江戸に出府した時の記録によると、12月7日関宿の「川北屋十兵衛」家に泊まり、宿賃202文、茶料48文、合計250文を支払っています。久右衛門は他の宿場でも250~270文(茶料を含め)の旅籠銭を支払っており、当時の東海道の旅籠銭の相場を知ることができます。」
江戸時代の終わり頃で250文だったということです。
これを現在の金額に換算することは容易ではありませんが、凡そ10,000~20,000円というところでしょうか。
※1両=200,000~300,000円としました。
吹き抜けの広い土間
入口の狭い土間を通り抜けると、広々とした土間があります。
ここは、宿泊客の食事を準備したカッテ場です。
調理のため“流し”や“かまど”が整えられています。
かまどには煙突がありませんが、かまどの上は吹き抜けになっていて、大きな煙突のようです。
壁が黒くなっているのは煤によるものです。
中央を側石に木蓋をかぶせた水路が通っています。
これは、屋敷裏に降った雨水を通りに流すための排水路です。
隣家と隙間なく建物が建てられているため、土間を通しているのです。
これはなに?
土間に置かれたこの家具は何でしょうか?
お膳を入れておく家具なのですが、名前はわかりません。
※お膳を入れる家具としては「膳棚」がありますが、形が全く違っています。
正面から見ると、12に区画されています。前面の蓋は“けんどん”式になっていて、軽く持ち上げると簡単に外すことができます。
各区画は、中が5段に分かれていて、それぞれにお膳を差し込むことができます。
都合、5段×12区画で60膳を収納することができます。
玉屋には、多い時には一晩に200人近い宿泊客があったといわれています。このお膳を入れる箱が玉屋にはいくつかあるようですから、こうした宿泊客の数も大げさではないと思われます。
いずれにしろ、旅籠ならではの家具ということになるでしょうか。
内からも見える宝珠
さて、“宝珠”は先(上)が尖った球形のものと説明してきました。しかし、玉屋の“宝珠”は上に三つの炎があるために、炎に隠れていて先が尖っているかどうかはわかりません。なので、ぜひ入館していただいて、2階の座敷から“宝珠”の虫籠窓の裏側を見ていただきたいのです。
2階の座敷から“宝珠”の虫籠窓を見ると、虫籠窓の障子が外からの日の光を柔らかく反射して、“宝珠”の球形の輪郭を浮きあがらせています。
ほ~ら、先が尖っているでしょう。これは、たまたまそうなったのではありません。球形が浮き上がるように、漆喰壁がその形で彫り込まれているのです。
これを作った職人さんは、しっかり“宝珠”の形を理解していたってことです。そして、“宝珠”が街道からだけでなく、宿泊客が泊まる客室からも見られるように、意識して虫籠窓を作っているのです。
街道からは炎が上がる勢いのある“宝珠”を、そして屋内からは光と影で浮かび上がる“宝珠”をです。
こんな“もてなし”を考え付いた玉屋主人とそれを可能にした職人さんたちに、拍手を送りたい気分になります。
宿泊客の様子
主屋の二階では、当時の宿泊の様子が再現されています。
表側の部屋では、布団・枕とともに、行灯や枕屏風が置かれています。
枕屏風は、風よけなどのために枕元に置かれた背の低い屏風の事ですが、相部屋(他の客と同じ部屋に泊まること)が一般的だった当時の旅籠では、他の客との仕切りにもなっていました。
※1階の展示ケースに展示された『旅行用心集』(江戸時代に刊行された旅の手引き)には、相部屋となる人の素行(酒癖、手癖、その他様々)に注意するよう書かれています。
次の部屋には、お膳が並べられて食事の風景になっています。
旅籠の宿泊には食事が付いていました。
当時は団体旅行が一般的でしたので、一行がまとまって食事をしているわけです。
客の前にそれぞれ2膳並び、お酒の入った銚子が置かれています。
上客を泊めた離れ座敷
廊下を通り抜けた奥にあるのは、上等な客を泊めた離れ座敷です。
“上客”とは、商売上大切な、ありがたい客のことです。
玉屋には、明治時代の初め、明治天皇の皇后・皇太后が宿泊されています。
座敷は八畳間が2部屋、六畳間が2部屋の4室が、田の字に並んでいます。
中庭に面した表側の八畳間には間口2間の床があります。
また、庭に面した奥側の八畳間には、床・天袋・書院が備えられています。
部屋の境は襖で、上部は彫刻欄間です。
この襖には以前は絵が描かれていました。
その絵は、軸装されて床にかけられています。
客を喜ばせる見事な欄間彫刻
離れ座敷の部屋境には見事な欄間彫刻がはめられています。
表側の八畳間と六畳間の間は「鶴亀(つるかめ)」。
奥側の八畳間と六畳間の間は「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」。
両八畳間の境は「松竹梅(しょうちくばい)」です。
いずれも、宿泊客を喜ばせる、おめでたい故事が題材とされています。
欄間彫刻は、ケヤキの板を、どちらから見ても同じく見えるように彫られています。
玉屋主人が自ら彫ったとの言い伝えがありますが、だとすれば玉屋主人はかなりの手練れ(てだれ ※熟練者)ということになります。
土蔵の中には何が?
旅籠玉屋の屋敷の一番奥まった場所に土蔵が一棟あります。
江戸時代の中期に建築された土蔵です。
この土蔵の中には特に貴重品が展示されています。
まず、一階には歌川広重などによる浮世絵が展示されています。
※浮世絵の退色を防ぐため暗くなっています。
そして、二階には旅籠玉屋で使われていたお膳やお椀などが展示されています。
玉屋の屋号にちなんで宝珠を象ったお膳やお椀は、上客をもてなすための物だったのでしょう。
また、襖の裏張には宿帳の断片が使われていて、数十人規模の団体が宿泊していたことを知ることができます。