中町は、東海道五十三次の宿として栄えた関宿の中心部です。
写真は、中央に東海道。その両側に伝統的な建造物が並び、街道の正面には寺院の屋根と鈴鹿の山々が重なっています。関宿中町から西の方向を見たところで、関宿の成り立ちを示す最も特徴的なまちなみ景観のひとつです。
関宿は天正年間(1573~1592)に町建てがされたとされていますが、当時の宿の中心部分がこの中町であったとされています。当時、この地域は“関地蔵”と呼ばれており、慶長6年(1601)に徳川家康が関宿を東海道の宿のひとつとした時の朱印状でも「関地蔵」とされています。“地蔵”とは、写真で街道の正面に写っている寺「関地蔵院」のことで、天正年間頃には既に現在の場所にあり、関宿はこの寺の門前町のような小集落であったと考えられています。
街道の正面にお寺の屋根が見えることは稀なことで、こうした関宿の成り立ちがこの景観には表れていると言えます。
街道の両側の建物に目を移すと、右には関宿を代表する大旅籠「玉屋」が、左には「関の戸」の金文字がまぶしい老舗和菓子屋の庵看板が見えています。中町は関宿の中心部だけあって、一つひとつの町家が大きく、華やかな外観をしています。
このように一つひとつの町家から、寺の屋根、背景となる山々までがくっきりと見えるのは、昭和63年(1988)に中町の街道部分から電線・電話柱を撤去して(※1)見えなくしたことと、平成4年(1992)に街道の地面を土の道のように茶色く舗装(※2)したことによります。
江戸時代の旅人たちも見たであろうこの景観は、住民と行政とが一体となったまちなみ保存事業によって復活し、その後も大切に維持されています。
<補足説明>
※1 街道裏手へ移設し、電線は各敷地の裏側から各家庭に引き込まれています。一部の電線は町家の軒裏を通しています。また、電話線は地中化しています。
※2 着色ではなく、脱色アスファルトに茶系色の骨材を混ぜた地道風カラー舗装です。その後何度かやり替えが行われています。
※この場所に行き、実際に見るためのヒント
●関宿観光駐車場から歩いて5分ほど。
●「関宿旅籠玉屋歴史資料館」の前あたりがベストポジション。
※参考にさせていただいた本など
『関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告』昭和56年/三重県鈴鹿郡関町
『東海道五十三次関宿 重伝建選定30周年記念誌 -まちを活かし、まちに生きる-』平成27年/亀山市