脇本陣の格式を示す千鳥破風 “鶴屋”

(3)特色のある町家と細部意匠
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 関宿で脇本陣を務めていたとされる“鶴屋”(西尾脇本陣)です。

 どの宿場にも、本陣・脇本陣であったと伝わる家があります。本陣とは大名や旗本、幕府の役人、勅使などが宿泊した格式の高い宿のことで、各宿場に1~2軒が整えられていました。脇本陣は本陣を補佐する役割を担った宿のことで、本陣に次ぐ格式を持ち、各宿に数軒がありました。

 江戸幕府がまとめた『東海道宿村大概帳(とうかいどうしゅくそんたいがいちょう)』によると、関宿には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42(天保14年(1843)調べ)があったとあります。

脇本陣 “鶴屋”の外観

 関宿を描いた絵図などには、脇本陣としては「萩野(市左衛門)脇本陣」と「西尾(吉兵衛)脇本陣」「原(太兵衛)脇本陣」の名が出てきます。さらにこれらとは別に「脇本陣 忠右衛門」、「鈴木脇本陣」、「荒木脇本陣」の名も伝わるところで、どの時期にどの家が脇本陣をつとめていたかははっきりとわかりません。

 ちなみに、「萩野脇本陣」は現在の玉屋の向かいくらいに、「原脇本陣(蔦屋)」は福蔵寺の参道東側に、「脇本陣 忠右衛門」は「西尾脇本陣」と同じく中町四番町ですが、「西尾脇本陣」より東にあり、いずれも関宿の中心部である中町にありました。

 『東海道宿村大概帳』の記載によると、2軒の脇本陣は、建坪が凡110坪、93坪で、本陣が395坪、269坪であったのに対し約半分から三分の一ほどの規模です。しかし、本陣と同様に街道に面して玄関や門が備えられ、奥には上段の間を備えた御殿が続いていたようで、周囲の町家と比べると立派で、通りを歩いてるだけでそれとわかるようになっていたようです。

 さて、この“鶴屋”を見てみると、間口は6間ほどあって関宿の一般的な町家と比べると規模が大きく、黄色い漆喰壁に虫籠窓が開けられていますが、門・玄関などはなく特別立派には見えません。ただ、正面左手(西)の座敷上部の壁に、三角形の屋根“千鳥破風(ちどりはふ)”が付けられていて目を引きます。

千鳥破風

 私は、この“千鳥破風”が、門・玄関に代わって脇本陣であることを示していたのではないかと考えています。

 破風(はふ)は、本来は屋根の妻(つま 屋根の三角形に見える側)のある部分を指しますが、あえて屋根の平(ひら 屋根の四角形に見える側)や壁に取り付けて建物の格式を高める屋根状の飾りのことを言います。寺院や神社、お城の建物などでよく見かけますよね。

 鶴屋では脇本陣としての格式を示すとともに、建物への入口を示す門の役割を果たすものとして、“千鳥破風”が取り付けられたのではないかと考えているのです。

 本陣は通常一般の旅人を宿泊させることはありませんでしたが、脇本陣は公式の客がないときには宿泊させることができました。
“関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か”
これは、伊勢参りの旅人などが歌ったとされる歌です。玉屋は現在の「関宿旅籠玉屋歴史資料館」、会津屋は地蔵院の前に現在でもあり、いずれも関宿を代表する大旅籠です。

 これら大旅籠と並んで“鶴屋”が多くの旅人から憧れの眼差しを向けられていたのも、“鶴屋”が脇本陣としての格式を持ちながら、チャンスがあれば泊まることができる、そんな存在だったからなのではないでしょうか。

※この場所に行き、実際に見るためのヒント

●関宿の中心部。中町北側。
●やはり“千鳥破風”を目印に探していきましょう。
●“鶴屋”の西隣には、“山車倉(やまぐら)”、“川北本陣跡”があります。
●現在は個人の住宅です。宿泊はできません。

<参考にさせていただいた本など>

『鈴鹿関町史 上巻』昭和52年/関町教育委員会
『関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告』昭和56年/三重県鈴鹿郡関町
「亀山市史」(IT市史)/亀山市歴史博物

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