寺々の立地年代に宿場の発展を読み解くヒントあり

(1)関宿の歴史
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 東海道五十三次“関宿”は東西約1.8㎞の長さがありますが、この規模は東海道の宿場の中でも最大規模と言われています。では、関宿が現在あるような規模にまで発展したのは何時頃の事なのでしょうか。

関宿の成立
 現在の関宿は東西に約1.8㎞の長さがあり、東から木崎(こざき)、中町(なかまち)、新所(しんじょ)の3つの地区に分かれています。
 関宿は、天正年間(1573~1592)、この地域を治めていた関盛信によって町建てされたとされ、当時は「関地蔵」の名で呼ばれていました。「地蔵」とは、現在も関宿の中心部にある寺「関地蔵院」のことで、当時の関宿は地蔵院の門前を核とした小集落であったと考えられています。
 当時の宿の範囲は中町の一部(西側あたり)が想定されており、江戸時代になって宿の役割が大きくなるにしたがって、現在の規模にまで拡大発展したと考えられています。

通り(東海道)の正面に地蔵院本堂が見える

宿と寺院
 宿場は街道の途中にある町場ですが、通信、運搬にかかわる様々な役務を担っていました。宿場の住民は屋敷の表間口に応じた税金を払っていたことはよく知られていますが、主に通信や荷物の運搬のための労役や必要な馬や牛を準備しておくことにあてられていました。宿場を定める制度が「宿駅伝馬制度」と言われる所以です。
 しかし、東海道は天下の往来。その上関宿は鈴鹿峠を控えた要衝の地でした。宿がこうした役務を常に果たしていくためには、多くの人や馬・牛を常に準備しておく必要があったでしょう。当初の関宿のような小集落では賄いきれなかったのではないかと想像されます。

 人を集めるためには何をすればよかったでしょう。宿だけでは賄いきれないとなると、まずは周辺の集落から人々を移住させることが現実的な解決策となります。宿に集まる人々にとっても経済的な成功が得られるチャンスでもあったでしょう。この時、人とともに集まってきたのが、人々の暮らしと密接に結びついていた寺々だったのではないかと考えます。もちろん、寺々にとっても多くの人が集まる宿は、寺勢を拡大していくうえで魅力的な存在であったはずです。
 つまり、“人々とともに寺”が、そして“寺とともに人々”が動く。発展期にあった関宿ではそんなことが起こっていたのではないでしょうか。

関宿の寺々の立地年代
 そこで、改めて関宿にある10の寺々の内、地蔵院※1を除く9ヶ寺が関宿に寺地を定めた時期を確認してみることにしました。

 まず、中町には延命寺、瑞光寺、浄安寺、福蔵寺の4ヶ寺(東から順)があります。延命寺(浄土真宗本願寺派)は、文亀年間(1501~1504)に現在地に移ったとされています。瑞光寺(曹洞宗)は中世にこの地を治めていた関氏の菩提寺で、関宿の北側小野川の上流部にありましたが、天正年間(1573~1592)に現在地に移ったとされています。浄安寺(浄土真宗高田派)は天正12年(1584)の開山です。そして福蔵寺(天台真盛宗)は、天正11年(1583)に尾張野間で自刃した織田信孝※2の菩提を弔うために創建されたとされています。
 このように、中町の寺々は、当時この地を治めていた関氏と何らかの縁があり、関宿の町建てが行われた天正年間頃までには現在地に寺地を定めていることがわかります。こうした寺々の立地状況を見ると、関盛信による町建てが中町を中心としたものだったことがうなずけます。

 次に、中町の東側に続く木崎には弘善寺と法林寺の2ヶ寺(東から順)があります。法林寺(浄土真宗高田派)は元禄9年(1696)の開創とされ、元禄5年(1692)に作成された『関三町絵図』ではすでに「道場宝林寺」とあります。弘善寺(曹洞宗)は寛文元年(1661)、瑞光寺5世天岩舜佐が隠居寺として開創したとされています。このように、木崎の2ヶ寺は17世紀の後半に開創されています。

 最後に、中町の西側に続く新所には、誓正寺、長徳寺、観音院の3ヶ寺(東から順)があります。誓正寺(浄土真宗高田派)は寛永15年(1638)の開山と時期は少し早いのですが、宝暦5年(1755)に本堂が建てられています。長徳寺(浄土真宗仏光寺派)も起源は建武3年(1336)に遡りますが、万治2年(1659)に堂宇が再建されたとされています。観音院(天台信盛宗)は弘法大師開いたとされ関氏の祈願所でもありましたが、寛文5年(1665)に関宿の北側にある観音山から本尊を現在地に移したとされています。このように、新所の寺々は開創こそ古い時期まで遡りますが、17世紀の中頃に本堂が再建されるなど境内が整えられています。

寺々の立地と宿の発展
 以上をまとめると、中町にある寺々が、関氏がこの地を治めていた16世紀初頭から関宿の町だてが行われたとされる天正年間頃までに現在地に立地しているのに対し、木崎の2ケ寺は17世紀の後半に開山、新所の3ケ寺は17世紀の中頃に堂宇の整備が行われていることになります。
 こうしたことから、天正年間頃に中町を中心とした小集落であった関宿は、17世紀の中頃から後半にかけて、中町に続く東西にある木崎・新所へと拡大、発展したと考えてよさそうで、以後この規模を維持しながら現在に至っているのです。

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<補足説明>

※1 地蔵院(じぞういん) 地蔵院の開創は天平年間()、行基によるとされている。寺地は関宿の南、鈴鹿川南岸の加行山(がんごやま)にあったとされる。その後、年代ははっきりとしないが現在地に移った。関宿が開かれた当時この地が「関地蔵」と呼ばれていたことからも、すでに寺の周りには町場ができていたと考えられる。
※2 織田信孝(おだのぶたか)【永禄元年(1558)~天正11年(1583)】 織田信長の三男。伊勢国北部を治めていた神戸家の養子となり神戸家を継いだ。豊臣秀吉、織田信雄(おだのぶかつ 織田信長次男)との対立により、尾張国野間(愛知県美浜町)で自害させられた。福蔵寺が菩提寺とされるのは、家臣大塚俄左衛門長政が信孝の首を葬ったとされているため。

<この場所に行き、実際に見るためのヒント>

●散策のスタートは関地蔵院。関宿の寺巡りはいかがでしょうか。
●中町の北側は北裏(きたうら)と呼ばれる地区。東海道とは全く異なり寺町の風情があります。
●街道から寺々への入口は、本ブログ内「
“せこ”の先にはお寺がある」をご覧ください。

<参考にさせていただいた本など>

『鈴鹿関町史 上巻』昭和52年/関町教育委員会『鈴鹿関町史 下巻』昭和59年/関町教育委員会
『関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告』昭和56年/三重県鈴鹿郡関町
「亀山市史」http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html

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