文明開化を関に伝えた“洋館屋(ようかんや)”

(3)特色のある町家と細部意匠
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<まちなみ案内編>

屋号になった外観意匠 “洋館屋”

 ここは“ようかんや”の屋号を持つ建物です。
 現在は“小万茶屋”という甘味処なのですが、“ようかんや”は食べる羊羹ではありません。屋号の由来は2階にある半円形の窓で、西洋館の“洋館”なのです。
 2階の窓を見てください。壁は青い漆喰で作られていますが煉瓦風の目地がつけられています。そして、窓の上部が半円形になっています。これらの特徴は明治時代の初め、日本に伝わった西洋の建築的特徴です。こうした宿場の建物に見られない外観意匠の特徴から、この建物は“洋館屋”と呼ばれるようになりました。
 この“洋館屋”は、明治時代、関で製糸場を営んでいた中村安五郎の家でした。当時生糸は日本を代表する輸出品のひとつで、中村安五郎は関において製糸業を大成させた人物です。“洋館屋”は、関における近代産業の萌芽を象徴する建物とも言えます。

“洋館屋”

<この場所に行き、実際に見るためのヒント>

●関宿の西部。新所北側。地蔵院の対面。
●青い漆喰壁と半円形の窓がトレードマーク。
●同じく中村安五郎が開いた旅籠“あいづ屋”は西隣。


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<投稿記事編>

文明開化を関に伝えた“洋館屋(ようかんや)”

関の大立者 中村安五郎と中村製糸

 まず、関で製糸業を興した中村安五郎と、彼が創業した中村製糸について『関町史』の記載をもとにまとめることにしましょう。

 中村安五郎は文久年間頃(1861~1864)に奥州会津より関の地に入り、「あいづ屋」を屋号としました。最初は地蔵院前にある旅籠山田屋を買い取って「あいづ屋」の名で旅籠を営んでいました。これが“洋館屋”の西隣に今もある「会津屋」です。

 代はかわりますが三代中村安五郎は、明治28年(1895)、旅籠の傍らで家内工業として生糸の生産をはじめ※1、順調に事業を拡大して明治40年(1907)頃には明神(新所の南側)に工場を新設しました。生糸生産に必要な良質でしかも豊富な水が、地蔵院からの湧水として得られたからでした。50名程の従業員があったといいますからかなり本格的な工場です。

 大正5年(1916)には旅館業を廃業して製糸業に専念して「中村製糸所」に名を改め、大正10年(1921)には埼玉県にあった「石川組製糸所」※2と合併して「石川組中村製糸所」となります。この頃の従業員数は700名を擁したとされています。

 しかし、大正12年(1923)に発生した関東大震災により、横浜に集積されていた輸出用生糸1年分が焼失し、さらに昭和4年(1929)に始まる世界大恐慌による不況が追い打ちをかけ昭和6年(1931)には休業。翌7年(1932)には「郡是製糸株式会社」※3に買収され「郡是製糸株式会社関乾繭場」となりましたが、昭和15年(1940)頃にはそれも閉鎖されました。

 関における製糸業は、中村製糸の盛衰に見られるように明治20年代に興り、第2次世界大戦までの50年ほどの間で急速に発展しました。大正12年(1923)の「関町町治要覧」の工業生産物一覧によると、当時の関町の工業生産額145万円に対して製糸はその90パーセントを占める関町の一大産業といえるものでした。

洋風意匠の誕生

 さて“洋館屋”の建物は間口が小さな家に見えますが、実際には間口5間ほどの町家が二つに分割され、その西側半分が改造されています。左右(東西)で別々の建物に見えるのですが1軒の町家なのです。1階は格子戸などが入り、東側の2階正面は袖壁や手摺が付けられるなど、関宿の典型的な町家の意匠と言えます。しかし、西側の2階正面は壁がひときわ目を引く青い漆喰で軒裏まで塗り籠められており、壁面には煉瓦積み風の目地がつけられています。窓は3連でそれぞれ上部が半円形になっています。建物そのものは江戸時代に建築されたものと考えられますが、後に西側半分の2階正面だけが洋風意匠に改造されたと考えられます。

漆喰による煉瓦目地、半円形窓

 このような外観意匠が生まれたのは、関・亀山地域で製糸業が盛んになる明治20年代と考えられていました。明治24年(1891)~25年に刊行された石版画「石版『回顧東海道五十三駅真景』」の一枚「関駅 地蔵堂」には、画面左半分に大きく地蔵院本堂が、そしてその右側に“会津屋”“洋館屋”が並んで描かれているのですが、洋館屋が今と同じ洋風意匠を持つ姿で描かれているからです。このことにより、洋館屋は関宿の町家へ洋風意匠が取入れられる最初期の例とされています。

 中村安五郎が製糸業を始めたのは明治28年で、石版画が発行された明治24年よりは数年遅いのですが、亀山地域においてはすでに明治20年頃から製糸業が始められており、中村安五郎も製糸に関わる何等かの商を行っていて、横浜などに建てられた西洋風の建物を参考にして、いち早く洋風意匠を取り入れたと考えられています。

 つまり、洋館屋の建物は、この町家の主である中村家による製糸業の盛衰の出発点としてばかりでなく、関地域における製糸業、ひいては近代産業の始まりを象徴的に示す建物として、地域史的な価値を示していると言えるのです。

一枚の油絵の発見による波紋

 と、ここまでは教科書通りのお話です。しかし、一枚の油絵の発見が少し微妙な問題を提起し始めています(といっても私の頭の中だけのことなのですが・・・)。

 その油絵とは、洋画家亀井竹次郎(1857~1879)により描かれた、先に記した石版画「関駅 地蔵堂」の原画にあたるものです。平成6年(1994)に発見され、郡山市立美術館(福島県郡山市)に収蔵されています。

 この原画が描かれたのは明治10年(1877)5月~6月のことで、亀井竹次郎が実際に東海道を旅して下絵を描き、翌11年に油絵を仕上げ、竹次郎の死後となる明治24年(1891)~25年に、石版画が大山印刷所(東京市京橋区加賀町)・東洋堂(東京市日本橋区葺屋町)の発行で、丸善書店(東京市日本橋区通三丁目)から発売されました。

 このことから、洋館屋”の洋風意匠は原画となる油絵が描かれた明治10年にはすでにあったことになり、今まで考えられていたのより10年以上も古いことが明らかになったのです。

擬洋風建築としての評価

 “洋館屋”が生まれた時期が古くなったことで、関の洋風意匠の町家と製糸業との関係は薄まってしまうかもしれません。しかしその一方で、文明開化の建築様式“擬洋風建築(ぎようふうけんちく)”※4の一例と考えることができるようになります。

 擬洋風建築の建設ピークは明治10年頃です。そして三重県にあった擬洋風建築の残存例と言えば「旧三重県県庁舎」(犬山市(明治村)/国重要文化財/明治12(1879))や「小田小学校」(伊賀市小田町/県指定有形文化財/明治14年(1881)建築)が思い浮かびます。

 もう少しこの建物の評価を高めても良いのかもしれません。

<補足説明>

※1亀山地域の製糸業は概ね明治20年から30年の間に操業している。
※2 埼玉県入間市にあった明治26年(1893)創業の製糸会社。昭和12年(1937)に解散。埼玉県内に5工場、埼玉県外に3工場を要する全国屈指の製糸業者であった。創業者石川幾太郎(1855~1934)が大正10年(1921)頃、本拠地に建てた迎賓館「旧石川組製糸西洋館」(埼玉県入間市/国登録有形文化財)が残る。
※3 京都府綾部市に本店を置く明治29年(1896)創業の製糸会社。現在のグンゼ株式会社。綾部市にある「グンゼ綾部本社」建物は昭和8年(1932)の建築。
※4 明治時代初期、主に江戸時代以来の日本の建築技術を身に着けた大工棟梁により建築された西洋建築風の外観意匠を持つ建築物。明治初年、全国各地の公共建築(役場庁舎、学校など)を中心に流行したが、西洋建築の専門教育を受けた建築家が誕生した明治20年代には建てられなくなった。「旧開智学校」(長野県松本市/国重要文化財/明治9年(1876)建築)が有名。

<参考にさせていただいた本など>

『鈴鹿関町史 下巻』昭和59年/関町教育委員会
『関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告』昭和56年/三重県鈴鹿郡関町
『東海道五十三次関宿 重伝建選定30周年記念誌 -まちを活かし、まちに生きる-』平成27年/亀山市
『描かれた東海道五十三次 亀井竹次郎 回顧東海道五十三駅眞景』平成9年/郡山市立美術館

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