明治維新とともに役割を終えた本陣

(4)場所場所の物語
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<まちなみ案内>

家康から伝馬朱印状を受けた川北本陣

 川北本陣は、関宿に2軒あった本陣のうちのひとつです。本陣であった当時の建物はすでに失われており、屋敷があった場所のほぼ中央に「川北本陣跡」と記した石碑が建てられています。

 川北家は代々「久左衛門」を名乗り、江戸時代の初期から関宿の本陣とともに“問屋”※1を兼ねていました。問屋が置かれていたのは、屋敷東側の現在山車倉があるあたりです。

 川北久左衛門は、関宿が東海道の宿となった頃にはすでに関宿の有力者で、慶長6年(1601)将軍家康が伏見で伝馬朱印状(「駒引の朱印」※2)を各宿に渡したときには、久左衛門が伏見に赴いています。

 屋敷は中町三番町の北側にあり、間口19間半(約35メートル)、建坪は凡395坪(約1,300平方メートル)程あり、残された図面によると、門構、式台玄関や上段の間などを備えた御殿のある堂々としたものです。江戸時代に参勤交代の大名などの宿泊所となったことはもちろんですが、明治天皇は明治元年(1868)の御東幸の行き帰り、そして翌明治2年(1869)の伊勢神宮参拝の折にも川北本陣に宿泊されています。

 しかし、他の宿場の本陣と同じように、参勤交代など大名の定期的な街道の行き来がなくなると、大名などの宿泊のために整えられた御殿などを維持することが難しくなり、明治時代の早い時期に建物などは取り壊されました。延命寺の山門(市指定有形文化財)は、明治5年(1872)に川北本陣から移築された建物で、川北本陣に関係して唯一残されている建物です。

※下に「深読みコラム」が続きます。

川北本陣の石碑

<この場所に行き、実際に見るためのヒント>

●関宿の中心部。中町北側。
●目印は「川北本陣跡」の石碑と山車倉。
●「関宿まちなみ保存会」は、以前から本陣の復元を夢にしています。

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<深読みコラム>

明治維新とともに役割を終えてた本陣

将軍の上洛、参勤交代と本陣

 関宿の本陣は江戸時代の初期には「御茶屋御殿」(現関郵便局)がその役割を担っていました。天正20年(1592)には徳川家康が休息したことが記録に残っています。

 東海道の東隣の宿である亀山宿には伊勢亀山藩の居城亀山城がありましたが、その本丸には将軍の居館が整えられ、将軍が京との間を行き来する折には、亀山城内に宿泊することが慣例化しました。徳川家康は慶長8年(1603)の将軍宣下、慶長10年(1605)の上洛、元和元年(1615)の大阪冬の陣の帰路に亀山城に宿泊し、2代将軍秀忠は元和9年(1623)と寛永3年(1626)の上洛途上、3代将軍家光は元和9年(1623)の将軍宣下、寛永3年(1626)、寛永11年(1634)の上洛の折、それぞれ亀山城に宿泊しています※3。このことから、関宿の御茶屋御殿は休息所として利用されていたものと考えられます。

 しかし、将軍の上洛は寛永11年の家光を最後に、第14代将軍家茂まで行われなかったため、亀山城本丸の将軍居館とともに御茶屋御殿もその役割を終えました。

 一方で、慶長6年(1601)の宿駅伝馬制度の確立、さらに、家光による参勤交代制の制定に伴い、参勤交代の大名などが宿泊する本陣を整える必要が生じ、「御茶屋御殿」に代わって「川北本陣」「伊藤本陣」の二つの本陣が関宿の本陣になったと考えられます。伊藤本陣は寛永14年(1637)に亀山藩から屋敷の地子免除をされていますから、両家が本陣を勤めるようになったのはこの頃と考えて間違いないでしょう。

 参勤交代制度は大名が1年おきに江戸と国元を行き来する制度で、寛永12年(1635)の武家諸法度で家光により定められました。将軍と大名との主従関係を確認し、その忠誠を示すものとされています。その一方で、大名が江戸を離れるときには正室や跡継ぎを江戸に滞在させる必要があったことから人質制度とされたり、江戸での滞在や往復に必要な経費が大名にとっては大きな財政負担であったことから、大名の財政力をそぐための制度と考えられたりもしています。

 参勤交代の制度は慶応3年(1867)の大政奉還とともに消失し、実質的に本陣を使用する者がなくなったことなどから、明治3年(1870)の民部省布告により本陣制度は廃止されました。明治元年、2年には明治天皇の御東幸の折に使用されましたが、これが最後の花道となった形です。

町家とは異なる本陣の建物

 本陣は一般の旅人が宿泊しない、大名・旗本など特別な客用の宿泊所でしたから、その建物もそうした特別な用途に応じた特別なものでした。川北本陣には当時の建物は残っていませんが当時の図面が残っており、これらを参考にして当時の本陣の姿を再現してみたいと思います。

 基本的な建築構成としては、街道に面してあるものとしては主屋と門、門から入った奥に大名の宿泊に使用された御殿が続くというものです。

 まず街道に面してある門は、御殿への入口となるもので、門を入ると白い砂利が敷き詰められた「白洲」があり、その奥に御殿への入口となる「式台玄関」があります。お大名は駕篭に乗ったまま式台玄関まで行き、そこから御殿へと入っていきました。

 この街道に面してあった川北本陣の門が、現在は延命寺に移築され山門となっているのです。延命寺山門は一間一戸の薬医門形式で、伊藤本陣にあった唐破風門と比べるとかなりおとなしめの意匠です。ただし、川北本陣の図面では式台玄関に唐破風が付けられていたことになっています。ちなみに歌川広重の「本陣早立」では冠木門が描かれています。

 玄関から御殿に入ると、「広間」(家来の控え室)や「書院」(執務室)が並び、最も奥が「下段の間」「上段の間」などといった大名の寝室となる部屋で、庭園や「御風呂」が付属しています。

 御殿と主屋との間には「御台所」「板間」「勝手」と呼ばれる部屋があります。これらは、宿泊する大名の食事を準備するための部屋で、大名行列には大名の食事を担当する者も同行していました。

 主屋は広い板間が中心でしたが、行列一行の荷物などを置くために使用したためで、伊藤本陣の現存する主屋も同様に使われていたと考えられます。伊藤本陣では主屋は本陣主人たちの住居としても使われていたと考えられますが、川北本陣では主屋の下手(東側)に居室が別にありました。

 このように、本陣の建物は一般の旅籠、そして関宿の一般的な町家とは全く違ったつくりになっていました。現存する伊藤本陣の主屋を見ても、2階が1階よりも少し前面に突き出た“出桁造”になっています。この出桁造は関宿の町家では他に例がないのですが、東海道に残る他の本陣には出桁造が見られます。東海道の宿場で本陣の建物が現存する例としては、草津宿本陣(滋賀県草津市)、土山宿本陣(滋賀県甲賀市)、二川宿本陣(愛知県豊橋市)※4で、関宿伊藤本陣を含めてもそう多くはありません。本陣の建築はまだまだ研究途上にあります。

現存する「伊藤本陣」主屋の“出桁造”

「廃置ノ儀ハ銘々可為勝手事」

 こうした格式ある本陣の建物群を維持することは大変だったと思われます。本陣では一般の旅人を泊めることができず、大名も自ら決めた宿泊代を置いていく形式で、宿泊代が定められているわけではありませんでした。大名も経済的には困窮していたため、十分な宿泊代を置くことはできなかったと考えられますし、国元の土産などを宿泊代に代えて置くことさえありました。予定が変わったために宿泊がなされなかった時の宿泊準備に要した費用の補償を求める争いなどもたびたびあったようで、本陣の経営は必ずしも安定したものではなかったと思われます。

 本陣の経営のかなりの部分は大名に依存していたと言うことができ、大名行列が行われなくなると、本陣の経営だけでなく、特別に準備された建物を維持していくことも難しく、本陣が明治時代の早い時期になくなってしまうことが多かったこともうなずけます。

 本陣の制を廃止した民部省布告にはこうあります。

「諸宿駅本陣ノ名目自今被廃、焼失其外諸御手当類一切被差止候条、夫々生業可相営、尤従前取立置候門並玄関上段之間等、廃置ノ儀ハ銘々可為勝手事。」

 これを私なりに訳すと「宿駅に定めていた本陣の制度は廃止です。焼失時などに交付していた諸手当は一切取りやめました。それぞれ生業を営みなさい。本陣にある門、玄関、上段の間などは、置いておこうと取り壊そうと、銘々で勝手にしてよい。」と、こんな感じです。突然梯子を外された本陣が続いていける余地はそうはなかったと思われます。もっとも、明治維新という社会体制の一新があったわけですから、こんなものなのかもしれません。

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<補足説明>

※1 問屋(とんや・といや):宿場において公用の荷物などを継ぎたてる役割。問屋では運ばれた荷物を引き継ぎ、自らの宿で用意した人足、牛馬により次の宿場まで送った。問屋に牛馬などを準備しておくことは宿住民に課せられた税としての意味があり、また労働に対しては対価が支払われた。問屋はこれらを仲介する役割を持つ宿役人の一人。現在の卸売業者とは意味が異なる。
※2 伝馬朱印状(「駒引の朱印」):徳川幕府が宿を指定するにあたり各宿に渡した朱印状。「馬と馬子」が描かれた朱印が押されたことから「駒引の朱印」「駒牽朱印」とも呼ばれる。公用の旅行者であることを証明する照合用の印でもある。
※3 亀山城本丸に将軍居館があったため、藩主は二の丸に居住した。将軍による亀山城本丸での宿泊は「亀山市史」(出典『徳川実記』)による。
※4  草津宿本陣(滋賀県草津市)は国史跡に指定されており、「史跡草津宿本陣」として、二川宿本陣(愛知県豊橋市)は「豊橋市二川宿本陣資料館」として公開されている。

<参考にさせていただいた本など>

『鈴鹿関町史 上巻』昭和52年/関町教育委員会
『鈴鹿関町史 下巻』昭和59年/関町教育委員会
『関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告』昭和56年/三重県鈴鹿郡関町
『東海道五十三次関宿 重伝建選定30周年記念誌 -まちを活かし、まちに生きる-』平成27年/亀山市
「亀山市史」

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