目 次
「古いまちなみで一番恐ろしいもの“大火”」
(その一)「古いまちなみは火には不利なことばかり」
はじめに
関宿で語り継がれてきた大火
古いまちなみは火事には不利なことばかり
(その二)「防火に関わるまちなみの知恵」
江戸時代の消火活動
ひとつひとつの町家での防火対策
まちなみ全体での防火対策
(その三)「古いまちなみでの防火対策」
町並み保存と防火対策
おわりに
(その一)
「古いまちなみは火には不利なことばかり」
はじめに
関宿のような古いまちなみで一番恐ろしいものと言えば“火事”なのではないでしょうか。木造の古い建物が数多くあり、それらは建物が古いだけでなく諸設備も老朽化しており、今でも毎日の生活に使われているわけですから、少し大げさに表現すれば「いつどこから火が出てもおかしくない」状況なのかもしれません。
そして、一旦どこかの家が火事ともなると、古い建物が軒を接してすき間なく並んでいる“まちなみ”のこと。隣へと燃え広がって大火となってしまう危険性は、新興住宅地と比べるとかなり大きいと言えるでしょう。
関宿やその周辺でも時折火事が発生します。いやつい先日も、関宿の夏祭りの夜、まちなみ保存地区に隣接してある建物で火事が発生したところで、暗い空を赤く染める火事の火はそれはそれは恐ろしいものでした。
という訳で、今回は関宿のような古いまちなみでの防火対策について考えてみようと思います。
関宿で語り継がれる大火
まずは、関宿でこれまでどのような火事があったのかを、『関町史』を開いて調べてみることにしました。ひとつひとつの火事については記述されていないのですが、十数軒~数十軒が焼けるような“大火”については『関町史』に一項が設けられていました。
関宿の歴史に残る大火のまず最初は、寛文三年(1663)6月8日、中町二番町御茶屋御殿前(現在の関郵便局あたり)の味噌屋小三郎より出火し、中町の大部分と木崎町の110戸(焼失家屋105戸、「崩し家」5戸)が被災した大火です。
この大火は、発生した時の元号をとって「寛文大火(かんぶんたいか)」や、火元の名から「味噌屋火事(みそやかじ)」とも呼ばれています。大火と同じ寛文年間頃に作られた宿場絵図が「関まちなみ資料館」に展示されていますが、関宿はこの頃にすでに現在と同じくらいの規模に発展していたようですが、まちなみに並ぶ個々の町家は屋根が燃えやすい板葺や茅葺であったようです。
この大火の折、火事を知らせるために地蔵院の梵鐘を打ち続け、梵鐘にヒビが入ったことが良く知られています。
次は、貞享三年(1686)8月24日、新所町長徳寺の西付近より出火し、32軒が焼失した大火です。この火事については詳しい記録が残っていないため被害の状況を詳しく知ることはできません。しかし、前の寛文大火からは20年程しか経っておらず、また寛文大火とは異なる地区での大火で、この二つの大火で関宿のほとんどの建物が被害を受けたと言えるのではないでしょうか。
そして三つ目の大火は、文政八年(1823)3月28日夜、中町四番町北側の宿場役人であった真弓休四郎方より出火し、東海道を挟んで36軒が全焼、半焼4軒、崩し家3軒、屋根通り取り崩し家2軒の計45軒が被害を受けた大火です。この大火は、火元の名をとって「真弓火事」と呼ばれています。
この大火に関しては、川北本陣家に「文政八年真弓火事類焼図」が残されており、詳しい被害の状況がわかります。「文政八年真弓火事類焼図」によると、焼失家屋は火元を含めて37軒、半焼4軒で、北側西端は問屋場で焼け泊まっており、川北本陣は幸い被害を受けていません。
関宿が宿場となったのが慶長6年(1600)年ですから、以来420年余りの間に関宿で3回の大火が記録に残っているという訳です。約130年に1回の割合が多いのか少ないのかはわかりませんが、前回の大火からすでに200年程たっていることが少し不気味に感じます。
古いまちなみは火には不利なことばかり
木造の家屋が火に弱いことは良く知られていますが、古い木造家屋が集中してある“まちなみ”は火事に対してさらに不利な点がいっぱいあります。そのことを、火がどのように他の建物に燃え広がっていく(「延焼(えんしょう)」という)のかを理解しながら、整理しておきたいと思います。
ひとつの火事が周囲へと広がっていく延焼が引き起こされる要因としては、接炎、放射熱、熱気流、火の粉が主要なものとされています。
接炎は炎が直接接して可燃物に火が移る事で、燃え移るというイメージです。
放射熱は空間を介して熱が伝わる現象で、炎が移るというよりは熱によって自然発火するというもの。町並みの対面や空地を介して隣に火が移るのは放射熱による場合が多いと思われます。
火の粉は燃え上がる炎から飛び散る火のついた破片です。火元からは離れた場所から火事が発生する“飛び火”は火の粉によると考えられます。茅葺や檜皮葺きなど植物性の葺き材よりも防火のために瓦葺が推奨されたのは、火の粉が飛んでも発火しにくかったためです。
熱気流は火災時に発生する強い空気の流れで、気流によって炎の勢いが増したり、炎を一定の方向に集約したりします。火の粉は熱気流によりより高く舞い上がり、風によって遠くにまで飛ばされ、思いもかけない場所が新たな火元となったりします。
※この部分は、専門的に勉強しているわけではありません。説明不足や事実誤認があればぜひお教えください。
木造、それも古い建物に使われている木材は伐採されてから長い年月が経っているため乾燥して燃えやすい状態になっています。そして、炊事や灯りのため、以前は屋内で直接火を使っていました。火事が発生させる危険が生活のあらゆる場所に存在していたのです。
そして、どこかの家で火事が発生すると、軒を連ねていることによって接炎による延焼を生じさせます。狭い道幅は街道の向かいにある町家への放射熱による延焼を起こします。延焼範囲が広がれば熱気流を生じさせやすく、このことが周辺への延焼をさらに早め、火の粉を大量にそして広範囲に降らせることになるのです。
そしてここに、空気の乾燥や強い風といった気象条件、十分ではない水利や消火設備、消火活動のしにくさなどの悪条件が加わると(残念なことにこうした悪条件も古いまちなみには備わっていると言えます)、最悪の結末が待っているのです。よくも大火が3回くらいで、それも最近200年間起こっていないことは奇跡的とさえ思えてきます。
(その二)へ続く