古いまちなみで一番恐ろしいもの“大火”(その二)

(1)関宿の歴史

その二
「防火に関わるまちなみの知恵」

目  次
「古いまちなみで一番恐ろしいもの“大火”」
(その一)「古いまちなみは火には不利なことばかり」
  はじめに
  関宿で語り継がれてきた大火 
  古いまちなみは火事には不利なことばかり
(その二)「防火に関わるまちなみの知恵」
  江戸時代の消火活動
  ひとつひとつの町家での防火対策
  まちなみ全体での防火対策
(その三)「古いまちなみでの防火対策」
  町並み保存と防火対策
  おわりに

江戸時代の消火活動

 江戸時代、一旦火事が発生すると大火に発展することがあったのは、伝統的な建造物やまちなみに要因があるばかりではありません。消火体制が不十分であったことも大きな要因と言えるでしょう。これまでは、まちなみの不利な点ばかりを見てきましたから、一旦まちなみから離れて火事が発生した時の消火活動について確認しておくことにしましょう。

 消火と言えば、まず“水”ということになるのですが、まちなみでは消火に使える水が絶対的に不足していました。そもそもまちなみは、大水などの時水が浸入しないよう微高地や台地上に立地していることが多く、生活用水は井戸水に頼っていました。もちろん水が豊かなところでは水が常に流れる水路や堀があったりもしましたが、いずれにしろ消火のためには火事現場に水を運ぶ必要があり、ポンプや水道などの近代的な設備が整うまでは人力に頼らざるを得ませんでした。

 火事が発生すると寺院の鐘・半鐘を打ち鳴らすとともに、番人が拍子木を打ち鳴らして市中を巡ります。住民は各自消火用具を持参して火事現場に駆け付け、庄屋や宿役人の指揮により水運びなどに従事しました。

 こうした労をいくらかでも軽減するのが、雨水などを大きな桶に貯めておき桶で汲み出す“天水桶(てんすいおけ)”などだったでしょうが、とても十分な水量とは言えなかったでしょう。ちなみに、関町への上水道の給水開始は昭和42年の事です。

 そしてたとえ火事現場の近くまで人海戦術で水を運んだとしても、今度は火元の近くに水をかけることができません。大きな木枡に入れた水を手押しポンプで噴出させる“竜吐水(りゅうどすい)”という装置が享保年間(1716~1736)にオランダからもたらされましたが、これも悪く言えば水鉄砲を大きくした程度のものです。

 竜吐水が関宿に導入されたのは、『関町史』の森秋一氏の覚書(昭和初年頃)によると「往古は・・・提灯一張、鳶口壱丁・・・・明治十五年関町新所木崎三台龍吐水設備ナリシ・・・・」(『関町史下巻』P.318)とあって、近代になってからのことです。

 こうした体制では、火事が発生しても積極的に火を消すような消火活動は難しく、飛んできた火の粉を消したり、延焼しそうな場所に前もって水をかけるくらいが“関の山”という訳です。

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 こうした状況ですから、火元に水をかける消火活動よりも、燃え広がっていく事を防ぐ延焼防止に重点が置かれるのもやむを得ない事でした。先に書いた大火の折の記録にある“崩し家”というのは、いわゆる“破壊消火”“破壊消防”等とも呼ばれるもので、延焼の恐れがある周辺の建物などを破壊して取り壊し、消火につなげる方法です。

 関宿の「寛文大火」では崩し家5戸、「真弓火事」では崩し家3軒、屋根通り取り崩し家2軒の計5戸が取り壊されています。おそらく“崩し家”は完全に建物を取り崩すもので、“屋根通り取崩し家”は屋根のみを取り壊したものを指していると思われます。

 火が近づいてくる中で、家数軒を取り壊すわけですから大変危険な作業だったでしょうし、壊される家、壊される家より火元に近い家、遠い家、それぞれに生活してきた人々の想いや如何にというところです。

 さて、この破壊消火。建物が取り壊されるわけですから、現在まで実際に行われた証拠を目にすることはできそうにないところですが、関宿のある建物には火事の折に取り崩しされたことが記録として残っていました。

 関宿のある町家の修理中、大黒柱の根継材の仕口部分に「明治21年6月25日隣家を火元とした火事が発生した折、柱○○本を切った。後に修繕するにあたり記した」との内容の墨書が発見されたのです。この建物の小屋束には火事の跡と考えられる焼け焦げも残っており、破壊消火により取り崩されたものの、幸いにして焼け残った建物と考えてよいでしょう。破壊消火の物的証拠として非常に興味深いわけですが、実はこの建物は先ごろ開館した「関の山車会館」の主屋で、この大黒柱の根継材が展示されていますからぜひご覧になってみてください。

関の山車会館 主屋

ひとつひとつの町家での防火対策

 余談が長くなってしまいました。本題に移ることにしましょう。

 関宿では、幸いにして200年間もの間、大火が発生していません。もちろんこの間、個別の火事は発生しているはずです。そして、古いまちなみの火への不利な点は大きく変わったとは言えません。
 これは単に幸運だったからでしょうか。もちろん、幸運もあっただろうと思うのですが、その反面、火事を出しにくくし、たとえ火事が発生したとしても大火に至らせないような、何らかの効果を生み出す要素が、まちなみの中に潜んでいるのではないかと思えるのです。もちろんそうした要素は、過去の大火の経験の中から生み出されたものなのではないかと考えます。

 関宿の町家やまちなみに防火に役立ちそうな工夫はなかったでしょうか。そして、関宿に暮らした人々は、何度かの火事・大火を経験した上で、どのような防火対策を行ってきたのでしょうか。まずこれらを手掛かりとして探してみることにします。

 ひとつひとつの町家で行われた防火対策としては、まず屋根を瓦葺にすることが挙げられるでしょう。鬼瓦などに「水」の字を入れて火を防ごうとしたことは良く知られていますが、これらは“おまじない”の類で実質的な効果があったとは思えません。しかし、土で作られた瓦は、火の粉が飛んできたとしても瓦自体が発火することがないため、防火上は大きな効果がありました。

 関宿の町家の屋根はそのほとんどが桟瓦を使った瓦葺です。“桟瓦”は、延宝2年(1672)に近江国大津 西村半兵衛が、それまでの本瓦(丸瓦と平瓦を組み合わせる)を改良して二つを一体化した桟瓦を開発したとされており、関宿の町家に桟瓦が使われるようになるのも17世紀の後半以降のことです。

 一般に桟瓦の普及は、8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革で江戸の町に瓦葺を奨励して以降とされており、18世紀の中頃以降のことです。それまで瓦葺は、信じ難い事ではありますが“町民には贅沢”と考えられていたようで、“高い経費”と“質素倹約を強いる支配体制”が普及を遅らせたのでしょう。吉宗は江戸の防火に関心が高かったようで、江戸の町に瓦葺を奨励するとともに、「江戸町火消いろは四十五組」の創設も行っています。さすが“暴れん坊将軍”ですね。

 瓦葺の次に考えられるのが、建物そのものを土壁で覆う“土蔵造り”にするこというものです。単に“土蔵(どぞう)”と言えば、貴重品を収蔵する建物のことですが、構造体となっている木部を土壁や漆喰で覆うことで、火から守るとともに防湿や盗難防止をも期待するものです。壁になっている土そのものは燃えることがありませんし、漆喰の白い壁は熱を吸収しにくいので、接炎と放射熱への効果があるわけです。

 この土蔵と同じように建物の外回りを土壁で覆う建て方が“土蔵造り”で、町家自体を土蔵造りとしたものは“見世(店)蔵(みせぐら)”と呼びます。城下町などでは、大火を契機として町並みを土蔵造りで整えた例があり、川越(埼玉県川越市)や高岡(富山県高岡市)などが良く知られています。

 関宿にも土蔵は数多くありますが、本格的な“見世蔵”は一棟もありません。関宿にある“土蔵造り”は、建物の正面二階や隣家に接する妻壁を土蔵造りとするもので、建物全体としてみればほんの一部分を防御しただけで、その効果は“見世蔵”と比べると限定的だったのではないでしょうか。

二階正面の漆喰壁と桟瓦

 関宿の町家で土蔵造りのもの以外の町家には、建物の両袖に“袖壁(袖うだつ)”と呼ばれる壁が突き出ています。この壁も延焼を防ぐ目的で取り付けられたものですが、その効果は土蔵造りよりもさらに限定的だったと思われます。

 さて、このように個々の町家の防火を考えれば、すべての建物を土蔵造りにすればいいではないかと思われるかもしれません。確かにそうです。しかし、おそらく関宿にはそうすることができない事情があったのでしょう。その事情は事情として改めて考えてみたいと思うところですが、例えば、宿場としての機能を維持させるためには、短期間で建物を復旧させる必要があり、“見世蔵”のような本格的な耐火建築は望めなかったとか、そもそも経済的な事情が許さなかったとか、すべての建物を土蔵造りにさせるような強い強制力が働かなかったとか等が大きな要因なのではないかと考えています。いずれにしろ、関宿が宿場町であったことが大きく影響しているわけです。

まちなみ全体での防火対策

 次に、まちなみ全体で行われた防火対策を見てみることにします。

 貞享三年(1686)の大火後、火元となった新所地区で真っ先に行われたのは、防火帯となる“火除土手”の設置でした。元禄年間に作成された関宿の絵図には、貞享の大火で火元となったあたりの街道南側に「火除松有七間三尺」、街道北側に「火除松有八間」とあり、凡そ14メートル程のすき間が確保されています。

 こうした防火帯となるものは、同じく新所 誓正寺あたりにも「火除土手(松林)」があり、6間(約11メートル)程のすき間が作られていました。どちらも土手と言いますから土を細長く盛り上げ、その上には松が植えられていたようです。

 また、絵図を見るとこれら土手の近くには「水溜」と記されたものがあります。おそらく防火用の水をためておくためのものと思われます。「水溜」は元禄の絵図を見る限りでは関宿全体で6カ所程あります(数は見逃しがあるかもしれません)。

 他は、火を出さないよう注意をせよということなのでしょう。町の各所に設けられた番所・自身番に夜番が詰めて注意を行っていたようです。『関町史』によれば、自身番(じしんばん)は中町に2カ所、新所、木崎に各1カ所の4カ所。定番所(じょうばんしょ)が中町に3カ所、新所、木崎に各2カ所の合計7カ所が設けられ、それぞれ1カ所に二人づつが夜番を行ったようです。こうした番所は、町並みの裏側にあたる南裏(中町附)、明神(新所附)、大裏(木崎附)、小裏(木崎附)にも置かれ、定夜番が行われていました。自身番は町入用で運営される自警組織のことで、定番所は亀山藩によって運営される職業的な番所です。

 いずれにしろ、江戸時代の絵図を見る限りでは、防火のための施設・設備としては防火帯となる火除土手と水溜程度で他には見当たりません。

「その三」に続く

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