浮世絵になった関宿本陣

(4)場所場所の物語
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<まちなみ案内>

浮世絵になった関宿本陣

 関宿には二つの本陣がありました。本陣とは、大名や旗本、勅使、幕府役人などが休泊した特別な宿泊所のことで、旅籠とは異なり一般の旅人を泊めることはありませんでした。東海道の各宿に定められていましたが、本陣を務める家は宿で他の役を務めていることも多くありました。

 ここは、関宿にあった二つの本陣のうちのひとつ「伊藤本陣」です。伊藤本陣の祖となる伊藤平兵衛は、関宿の町建てに貢献した“関五軒屋敷”の一人とされ、江戸時代の初期から本陣とともに、年寄役を勤めていました。

 屋敷は中町三番町の南側にあり、間口は11間余(約20メートル)で、現在残っている街道に面した主屋とともにその西側には檜皮葺の唐破風門がありました。唐破風門から屋敷に入ると、その奥には“式台玄関”、“上段の間”などを備えた御殿があり、総建坪は269坪(約890平方メートル)もあったと記録にあります。

 現在残っている建物は街道に面した主屋のみですが、ここは本陣の主人家族の住まいや、大名行列のための様々な荷物の保管、警護役の控えなどとして使われていた建物です。

 浮世絵師歌川広重は、東海道五十三次の宿を題材にした浮世絵シリーズの中で、関宿の本陣を描いた浮世絵「本陣早立」を残しています。「本陣早立」が関宿に二つあった本陣のどちらを描いたものであるかははっきりとしていませんが、描かれた建物の配置から街道の南側にあった伊藤本陣だったのではないかと言われています。

【※関連記事:「「土間は東、座敷は西」は暗黙の了解」

※下に「深読みコラム」があります。

伊藤本陣

<この場所に行き、実際に見るためのヒント>

●関宿の中心部。中町の南側。
●正面右手に大きく石碑があります。
●浮世絵を常時見ることはできるところはありませんが、「関宿旅籠玉屋歴史資料館」に絵葉書が販売されています。


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<深読みコラム>

浮世絵から本陣を知る

歌川広重が描いた関宿

 歌川広重【寛政9年(1797)~安政5年(1858)】という浮世絵師をご存じでしょうか。江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、ヨーロッパに持ち出された彼の浮世絵は、ゴッホやモネといったヨーロッパの印象派画家に強い影響を与えたことが知られています。

 歌川広重は江戸の常火消の家に生まれ、浮世絵師歌川豊広に入門して「広重」の号を与えられました。安藤広重とも呼ばれるのは、彼の本名が安藤重右衛門だったためです。広重は風景画を得意としていましたが、特に東海道五十三次の宿場を描いた作品は彼の名を一躍高めた出世作でした。
 東海道五十三次浮世絵は、各宿の名所、名物、そして旅人たちの姿が生き生きと描かれており、当時庶民の間で大流行するとともに人々を旅へとかきたてました。

 広重が描いた東海道五十三次浮世絵シリーズは、その人気ぶりから十数回とも数十回ともいわれるほど次々に出されたため、それぞれの宿に広重の浮世絵が十数枚あるということになります。関宿を描いた広重の浮世絵には、本陣、東追分、旅籠屋を描いたものが残っていますが、特に本陣を描いた「本陣早立」は美術的な評価の高い浮世絵のひとつです。

「本陣早立」
(フリー画像のため、細部が見えにくく申し訳ありません。)

浮世絵「本陣早立」

 「本陣早立」は、広重の最初の東海道五十三次浮世絵のうちの一枚です。広重は天保3年(1832)秋、幕府の御馬進献の一行に同行して江戸から京までの東海道を往復し、この時に描いた下絵をもとに翌天保4年(1833)、最初の東海道五十三次シリーズを刊行したとされています。この最初のシリーズは、後のものと区別するために出版元の名をとって「保永堂版」と呼ばれています。

 広重が本当に東海道の旅をしたかどうかについては疑問もあるようですし、「本陣早立」が関宿に二つあった本陣のどちらを描いたものであるのかについてもはっきりとはしません。しかし、描かれた建物の配置から街道の南側にあった伊藤本陣だったのではないかと言われています。

 それでは、じっくりと浮世絵を見てみることにしましょう。

 絵の下半分の地面は青く、上半分の空は黒く塗られています。これらは上下に行くほど濃く塗られており、まだ明けきらぬ早朝の雰囲気を伝えています。

 門の脇や建物の軒先には、大きく家紋が染め抜かれた幔幕が張り巡らされています。この家紋は本来であれば宿泊している大名の家紋ということになるのでしょうが、広重の父方の姓「田中」の字と御所車が組み合わされた架空の家紋です。冠木門の左右にも同じ家紋が描かれた大きな提灯が火が灯された状態でかけられています。また、描かれた人物のうち3人が提灯を提げています。右側人が持つ箱提灯の紋は、広重の「ヒロ」を図案化したものとされています。

 画面右手には木札を取り付けた棒が立てられています。これは「関札」で、当日この本陣に宿泊していた大名の名前が記されています。棒と札の一部が絵の枠から飛び出しているところがダイナミックで面白いところです。画面左手の建物の板間には駕篭が置かれていますが、その上に数枚の木札が吊り下げられています。一番右手の木札には「・・・守泊」とありますから、当日使用されていない関札なのでしょう。各大名も常宿とする本陣がありましたからあらかじめ準備されていたのでしょう。また、本陣側でもどこの大名が宿泊するかを掲げ誇っていたのでしょう。

 さて、板間に掲げられた関札を左へと見ていくと、三枚目の木札には「仙女香」、その隣には「美玄香」とあります。「仙女香(せんじょこう)」は白粉、「美玄香」(びげんこう)は白髪染です。これらを販売していた「京ばし南てんま丁三丁め 坂本氏」の名が、その横のふすまの柄に隠れるように書かれています。これは間違いなく宣伝広告で、広重の他の浮世絵にも書かれていることがありますから、スポンサーとしての付き合いがあったのでしょう。こうした隠れキャラを探し出すのも、広重の浮世絵を見るときの楽しみのひとつです。

「本陣早立」の意味

 さて、すでに絵解きからもお分かりの通り、「本陣早立」は「まだ夜の明けきらぬ早朝、本陣を出立する準備に忙しい大名行列の一行」が主題となっています。

 参勤交代制度は、大名が1年おきに江戸と国元を行き来する制度で、将軍への忠誠を示すものです。制度が始まった当初は、各大名は競って行列を立派にしようとしたのですが、江戸時代も後半となると各大名の財政状況は“火の車”で、江戸での正室や跡継ぎの生活費、参勤交代に要する経費などが藩の財政を圧迫していました。そんなことから経費の節約のため一日の行程をできるだけ長くしようと、本陣を朝早く出発し、夜になって次の本陣に到着するという強行軍が強いられていたのです。この絵には、そうした大名方の涙ぐましい努力と、それを支えた本陣の主人や宿役人たちの姿が描かれているという訳です。

 広重の浮世絵には一枚一枚に物語(+隠れキャラ)があります。広重が見聞きした物語とともに東海道五十三次を旅してみませんか?

<参考にさせていただいた本など>

『関宿 伝統的建造物群保存地区調査報告』昭和56年/三重県鈴鹿郡関町

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